日本 久しぶりの実家
2007年 10月 10日
母は今年88歳の米寿を迎えた。父親が生きていたなら、母と10歳違いだから98歳ということなのであろうが、5年前に94歳で他界した。そういえば、母の米寿どころか、親父の米寿や卆寿にも私は顔を出さなかったな、と思いつつおふくろの顔を眺めていた。そんな祝い事などは、すべて弟が代表してやっており、妹がその側で弟を助けていた。私は実家にはあまり近づかなかったような気がする。仕事の関係で横浜や台湾、中国などをウロウロしていたことも一因では有ったが。
母親は、親父が他界した時は、「自分が送ってやらねば・・・」と言い、しっかりとしてやっていたのだったが、次男である私の弟がなくなったときには、さすがにがっくりした様子であった。そして、親不孝者の私に向かって、「親より先に逝くほどの親不孝は無い。どこにいても、どんな生活をしてもいいから、死ぬんじゃないよ。」そう言って私に小言をくれたものだった。
そんな母親が米寿、そして再来年には卆寿である。元々小柄だったからだが一段と小さくなり、学校の教員を長く務めたせいか、大きかったこえも幾分小さくなった。背筋をぴんと伸ばしていた背中も丸くなった。それでも、毎日散歩を日課としているとかで、顔は日焼けして黒くなっていた。
久しぶりの実家は、何かすっきりしている。妹に聞いてみると、庭木を大分切ったのだという。親父があっちこっちから集めては植えていた庭木が、うっそうと茂り、弟が生きていた頃には、植木屋さんを頼んで切ってもらっていたのだが、それも出来なくなったので、背の高い植木を思い切って短く切り、邪魔なものは根元から切り倒したのだとか。親父に似たのか、私も庭木をいじるのが好きなので、切らずに残っていた、御用松やその他何本かを切らずに残してもらうよう頼んだ。いずれ私の家の庭に移植するからというのが口実で。
庭の中央部にある池にはまだ鯉が泳いでいた。これも親父が庭師さんを頼み、作った池で、小さい頃はここに夜店で買った金魚を放したりして、遊んだものであった。お袋によれば、この池も潰して埋めてしまう予定との事。池の掃除や、水の循環装置の手入れ、排水溝の掃除など手が掛かるので、鯉を誰かにあげて、その後埋め立てるのだという。40cmから50cmは有ろうか思われる十数匹の錦鯉は私の子供たちが、実家に行ったときの格好の遊び相手だったが。
中国に住み、仕事をしている私にはどうすることも出来ない。
昼食に亘理名産の「はらこめし」をご馳走してくれるという。これは秋になると、阿武隈川を遡上してくる鮭を炊き込んだご飯に、その“はらこ”、つまり“いくら”をまぶして、食べる季節の郷土料理である。私が小さい時にはお袋が家で“はらこめし”を作り、よく食べさせてくれた、お袋の味でもある。最近は全国的にも名前を知られるようになり、観光バスで“はらこめし”を食べにくるツアーもあるとか。
私は妹と3人で荒浜の”鳥の海国民保養センター”に食べに出かけた。
最近は何件かのすし屋さんや料理屋さんがTVなどで紹介されたりして、有名になって、季節になると行列が出来るほどなのだという。案の定、3連休の間というタイミングのよさも手伝って、保養センターもいずれの料理屋さんやすし屋さんも行列が出来ていた。
30分ほど並んで、一年ぶりの“はらこめし”を楽しんだ。
この地域では、春には“ほっき貝”の身で作る“ほっきめし”、初夏には“しゃこ”海老を炊き込んだ“しゃこめし”、夏には“あなご”で作る“あなごめし”、秋には“はらこめし”、そして冬には“牡蠣めし”と四季折々の食事が楽しめる。私は牡蠣とほっきは苦手だが、その他は好きで、亘理に帰ると何かしら食べて帰る。
今度亘理に来るのは何時になるのか。お袋にはまだまだ元気でいて欲しい、また手作りの“はらこめし”を食わせて欲しい、と思いながら、帰路に着いた。