中国で単身生活をすることになったTADAの日々の感じた事を気ままに書いてます。


by wata1150
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弟の死

1月3日 弟が死んだ。享年59歳(満58歳)。短い一生だったとおもう。私は恵州にいたので、死に立ち会うことは出来なかったが、会社に休みをもらい、死に顔には接することが出来た。

死に立ち会った妹にその状況を聞いた。
前日まで、全く健康であったという。年末には友人達と岩手県のある温泉に行き楽しく過ごしていたのだと言う。大晦日に帰宅し、正月の飾りつけなど、正月を迎える準備をし、何事もなく新年を迎えた。正月2日、午後から、会社のために、近在のある神社に今年一年の祈祷をしてもらいに出かけたのだそうだ。そして帰宅時に風邪を引いたようだと言って、早めに休んだ。夜中、扁桃腺が腫れたようだ、と言っていたらしい。3日の朝、2階にある彼の部屋から3度自力で一階に降りてきている。2回とも何事もなく。3回目に手足が冷たいと言って、一階の洗面所でお湯に手を浸して暖めた。妹が異変に気付き救急車を呼ぼうか、と告げ、弟は「うん」と答え、自力で2階に上がった。そして、そのまま彼は自分の力で2階から降りてくることはもうなかった。救急車が到着し、心臓マッサージや、電気ショックなど可能な限りの蘇生術を試したらしいが、甦ることはなかったと言う。救急車で、隣接の町の比較的大きな病院に行き、再三蘇生術を行ったようだが、やはりだめだった。死因は急性の肺炎から来た心不全とか。

私は、どうしてもその原因というのが信じられなかった。妹にしてもそうだったらしく、何人かいる私の親類の医療関係者または過去にそうであった人に聞いていた。が、一様に、解らない、と言っていた。死因などは、実際はわからないのかもしれない。結果として、脳死、心肺停止などを称して死と言うのであれば、“そうなったから死んだのだ”としか言いようはないのかもしれない。

私の妻が、妹からの連絡を受け、ちょうど正月休みで帰省中の私の長男、次男、妻と娘が駆けつけた。長男は私の母親に付き添い、言葉をかけて励ましていたと言う。次男は正月飾りを外したり、家の整理をしたりしていたらしい。妻は、長男、次男、娘を連れて元日に新年の挨拶に出かけ、元気な弟の姿を見、話をしているだけに変わり果てた姿を見ても、「信じられない!何故?」を連発していた。子供達も、日頃お年玉や小遣いをもらったりして、可愛がってもらっていただけに、ショックを受けていた様子だった。

3日の昼頃、息子からの電話で弟の死を知った。会社の社長に話をし、一時帰国の了解をとった。4日夕方、私が駆けつけた。彼は既に棺に入れられ、冷却材で固められて冷たくなった体を横たえていた。妹に言わせると、首から上はどす黒く、手足は白くなっていたと言う。心臓が上手く動かず、そのため頭に上った血液が心臓に戻ることができない状況で心肺停止したのではないかという。死に顔を見ても、余り弟の死を実感することは正直出来なかった。比較的冷静に妹や87歳になる母親が語る状況報告を聞いていた。頭の中では弟の死を理解できても、感情や感覚と言ったところではピンと来なかった。飾られた遺影をみても、そのうち扉の影から「お!来たのか?元気か?仕事はちゃんと出来てるか?」といういつもの彼の声と共に姿を現すような感覚だった。

正月中の死ということで、火葬だけを6日に行い、告別式、葬式は16日以降に行うことになっていた。私が居ない事もあり、弟と一緒に住んでいた妹が喪主として、葬儀社や町内会との連絡、親戚や弟が在籍していた会社関係者への連絡、火葬や告別式、葬式の手配などを切り盛りしていた。

6日、火葬があった。私と妻が参列した。出棺の前、最後に彼の顔を見たとき、ドーン!と何か突き上げられるものを感じ、まわりに人がいるのも忘れ、私は棺の中の彼に取りすがって泣いてしまった。誰かに肩を叩かれるまで、しばらく泣いていた。私の肉親の死というものについての感情的な感覚が一気に噴出したらしい。が、それで気が済んだのか、あとは火葬場でも、比較的淡々としていた。炉の中に消えていった棺を見ていても、辛いことは辛いが、涙が噴出すような感覚ではなかった。1時間半後、火で焼かれ、骨ばかりになって出てきたときも、箸で骨を骨壷に収める際も、余り感傷的になることはなかった。妹や妻はしきりに涙を見せていたが。

母親は、自分の息子が棺に納められ、火で焼かれるのを見たくない、そこに立っていられないといい、火葬に立ち会うことを拒み、家で皆が帰って来るのを待っていた。骨壷に入れられた自分の息子に向って「〇〇ちゃん、こんなになってしまったの!・・・・・・・・」と言って遺影の前に座り込んでしまっていた。親父が数年前に他界したとき、母はかなり衝撃を受けていたの筈なのだが、それでも弔問に来た人たちに向って挨拶をしたり、話をしたりしていたときには、涙は無かったと思う。無論、一人になったときには泣いていただろうが。親父は92歳で他界したのであり、その前に長い間脳梗塞やその他の病気で、体力的にも徐々に衰えて言っていたので、いずれは死ぬことは、私も弟も妹も、そして母も覚悟はしていた。だから、余り衝撃は無かったように思う。母は、わが子の死なぞ、自分が生きているうちに遭遇するとは、露ほどにも思って居なかったに違いない。昔、母が私に向って、多分それは私が大阪に勤務していたときに病気になって入院していたときに、見舞いに来ていった言葉だと思うが、「親より早く死んだらダメだよ。それが一番の親不孝になるんだよ。」と繰り返し言っていた。そういう意味では最大の親不孝だったのだろう。母親の打ちひしがれ方は、尋常ではなかった。

母と妹は、今後どうやって生きてゆくのか。息子達は、時々は時間を見て様子伺いに私の母に会いに行ってくれるとの事。妻も、従来よりも頻繁に行くことになるのであろう。私は恵州にいて仕事をしながら、日本に掛ける国際電話は多くなるのだろうな・・・と思う。せめて母や妹には、弟の分までしっかり生きて欲しいと思うし、私の家族、妻の両親なども、体を大切にして生きて欲しいと願う。そして、そのためにも、私自身も十分に体に気を配って生きねばならないと思うのである。

1月10日に恵州に戻るつもりである。
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by wata1150 | 2007-01-07 21:29 | 日記