中国で単身生活をすることになったTADAの日々の感じた事を気ままに書いてます。


by wata1150
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一月ほど前から、娘がブログを書き始めました。
彼女が、私のブログを時々覗いている様なので、自分でも何か気楽に書いてみたら?と誘ったのがきっかけだったような気がします。彼女も何か自分の素直な気持ちを表現したかったのだと思います。また、私がブログを書いていることに刺激されていることもあったのでしょう。また、彼女は浪人中の身の上で、友達と遊んだりすることもままならない身の上ですから、鬱々とした気分に有った事もきっかけになったのでしょう。兎も角、私のブログを真似て、エキサイトでブログを書き始めました。

私は、深夜にパソコンに向い、寝る間を惜しんでブログを書く娘を想像できなかったので、多分三日坊主だろうと考えてました。が、想像に反し、一ヶ月を経過し、まだ、ほぼ毎日更新をしています。最近は、いろいろなテクニックに挑戦して、楽しんでいる様子です。

内容的には、まだ十代の娘ですから、軽いタッチの散文的な日記風の文章です。でも、素直に書いてあり、親ばかかもしれませんがよくストレートに物事を捉えているようですし、新鮮な感性で見ているので、私みたいにくどくなったり、格好を付けたりせず、好感が持てます。

娘はある男性ミュージシャンのファンで、ファンクラブにも入っており、文章の裏にそういったものも見え隠れしています。私は歌手のだれそれのファンとか言う物には全く縁が無く、彼女の年代には、テニスやスキーなどのスポーツにはまっていました。だから、ミュージシャンを好きになる気持ちは全く理解できません。が、おかげで彼氏とか、彼女とかというボーイフレンドなどもいない様子です。むしろ受験生という立場では、かえってその方が勉強に集中できると思いますし、よいのではないかと思い、ミュージシャンのファンであることは、多めに見ています。私個人はそのミュージシャンは決して好きなタイプではないのですが。

彼女の高校時代の友人の多くはすでに大学生で、学生生活をエンジョイしている様子です。でも、彼女は自分の目標を持ち、下手に遊ばずに自分を律して、いまはなすべき事をなす、と頑張っています。そのことによるストレスが、ブログを書くことで少しでも緩和されてくれればいいのだが・・・、と思わずにはいられません。

興味のある方は、一度覗いてやって下さい。本人は、自分の友人達に呼んでもらうことを意識しているようですが、私から見ると、なかなか娘の素直な心が表現されていて、自分の娘であることを差し引いても、読めるような気がします。
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by wata1150 | 2006-09-12 19:40 | 日本滞在記
 宮崎県延岡市で高校生が突然刺されるという事件がありました。私のブログメートのもこさんもブログで書いていましたね。以前は、大きな事件については、ニュースで目にすることも有りましたが、最近は失業状態で家にいる時間が長くなり、自然と家に居る時間が長くなってくると必然的にTVを見る機会も増え、したがって、事件報道を目にする機会が増えてしまうのです。悲惨報道が多く、あまり見たくないと思うのですが、TVからは遠慮会釈なしに飛び込んでくるのです。心痛い限りです。

 日本という国は、こんなに社会的に不安な国だったかな?と思わず昔を思い出したりしてしまうのですが、以前は最近のように治安が悪い国ではなかったような気がするのです。親が子供を虐待して、殺してしまったり、訳も無く他人を刺し殺したりその他いろいろなケースで事件がおきています。そして、その中で特徴的なことは、”かっとなって”とか、”自分勝手な理由で”とか、あるいは”何の理由も無く”事件を起こしてしまっているようです。

 情報の伝達手段が広範囲になり、人々も多くの情報を手にしたり、目にしたりする機会が増えたのも、こういった報道が増えた要因の一つなのでしょうが、反面、事実こういった事件、犯罪が全国的に増えているのではないでしょうか?情報がメディアを通じ機械的にどんどん伝達されるのに、それを受ける側が精神的にそういう報道を受け入れ切れない人が多々いる。本来、情報は受ける側で内容により趣旨選択し、要らない情報は破棄し、必要な情報のみを受け入れるという能力を人間として持っているはずなのですが、子供の頃から情報の渦の中においておくことで、そういった趣旨選択能力の比較的弱い人が出てくるのかもしれません。

 私は、最近”我慢をする”事ができない人が増えているような気がして仕方が無いのです。
経済的には世界でもトップクラスの裕福な日本という国に生まれ育ち、少子化のあおりで、子供はわがまま一杯に育てられ、我慢することを学習することも無く、社会に巣立ってしまう。食生活も非常に裕福なおかげで身体の発育は早熟化し、若年にして体格だけは大人並、しかし精神は小学生並みという人も少なく無いのではないでしょうか? 
 社会にものがあふれ、ありとあらゆる物が氾濫し、お金さえ出せば大概の物は手に入る社会であるがゆえに、少しお金がある人は、子供に、何でも買い与えてしまう。仕事が忙しいゆえに、子供とのコミュニケーションが少なくなり、その裏返しとして子供に物を買い与えることで親であることを自己確認して満足することはないでしょうか?
 学校教育の現場でも、先生の体罰を禁止しています。体罰禁止は悪いことではないのですが、それであれば家庭でもっとしつけをすべきなのです。しつけもできない家庭に育った子供に社会規範を教科書で教えても、決して身には付かないでしょう。最後のチャンスは学校ではないでしょうか。そういう意味では、体罰も必要悪としてある程度は認めてやる必要が有るのではないでしょうか。

 そういった子供時代の我慢する体験が不足することが、我慢ができない子供を作り、ちょっとした事でキレて事件を起こしたり、犯罪になったりするのではないでしょうか?

 私は、比較的貧しくは無い家で生まれ育ちました。しかし経済的には祖父がしっかり家計を守り、決してムダ銭を使わせませんでした。母は”戦争中は「欲しがりません。勝つまでは」と言って、皆ひもじさを耐えてきたのよ。”といい、私に我慢することを教えてきました。しかし、学生時代にはアルバイトで小遣いを貯め、欲しい物は適当に購入してはいましたし、両親も何も言いませんでしたが。

 最近、しきりに母や父の言葉を思い出す事が多い日々です。そろそろあの世で待っている人が私を呼んでいるのかな?
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by wata1150 | 2006-08-26 10:46 | 日本滞在記
毎日寒い日が続きます。 仙台では日中の最高気温が20度を切る日もあります。天気予報では23日まで続くようです。

一週間前、異様に背中が痒く、娘に背中を掻かせました。左上半身が重苦しく特に肩甲骨周辺に痛みがありました。妻と息子に背中を見てもらうと虫刺されのような斑点があり、全体に赤くはれているとの事。数日様子を見ることにしました。ところが、日を追って痛みは激しくなり、背中だけではなく胸にも痛みが感じられ、また耳鳴りも感じられるようになって来ました。さらには、背中の腫れは大きくなり、痺れも出てきました。よほどの悪い虫に刺されたのか・・・とおもい、ひどくなり、立っていることさえ苦痛になってきました。

パソコンのキーボードを打ったり、マウスをクリックするにも苦痛を伴なうようになりました。妻に、話して皮膚科に行ってみることにしました。皮膚科に行ってみると、結構多くの患者さんが平日にもかかわらず詰めかけており、受付に聞くと1時間半から2時間待ちとの事。しかし、やっとの思いで車を運転してきて、ムダに帰って、もっと重くなってはいけないと、症状を話し、2時間待ちをすることにしました。10分くらい待ったでしょうか。あまりに苦痛に顔をしかめていたのがわかったのか、突然診察室に呼ばれ、ドクターに見せました。

一言「帯状疱疹」! 「え?それ、虫刺されじゃ無いってこと?何かの病気?」すると先生曰く「水疱瘡と同じウイルスにより引き起こされる発疹」とのこと。ドクターはそれだけ言うと、処方を看護婦さんに言い、私に「薬を出すから、飲んでください。抗ウイルス薬です。」といって、患者さんの待つ別の診察室に引き上げていきました。

近くの薬局に行き、処方箋に書かれた薬を購入しました。この薬が驚くほど高いのです。3日分、1日3回、一回2錠、計18錠で3600円、でした。保険が無ければ12000円、一錠200円です。しかし、体の苦痛には勝てず、お金を払って帰りました。

妻にその話をすると、彼女は「帯状疱疹」という病気を知っており、「雅子妃殿下がかかった。」とか、「近所のNさんもかかった」とか言い、「痛いらしいよ」とか、彼女の知識の範囲で教えてくれました。薬学部の息子も「神経が侵されて痛むので、痛み止めは無いよ、我慢するしかないね。」とか、数日で治まると思うから、我慢するしかないよ」と冷たく言い放ちます。神経痛の痛みと同じなので「温泉やお風呂に入ると痛みは緩和される」とか「今は連日寒いから、痛みはきついかも」と教えてくれます。事実、背中はものすごく”重く痛い”感じなのですが、お風呂に浸かって汗がで出すとスーッと楽になるようです。

糖尿病で免疫力が低下していること、退職し再就職が出来ていない状況でストレス疲労があることなどが、発病の引き金になったようです。調べてみるとこの「帯状疱疹」というのは、結構ポピュラーな病気のようです。

まだ10分間もパソコンを触るのは苦痛で、この投稿を書くのにも、5分書いて2時間休み、又5分書くような状況で書いてます。来週には多少治まっていることを期待しながら。

帯状疱疹詳細は以下のページがわかりやすいかも。
http://www.suita.saiseikai.or.jp/kakehashi/hifuka/no-1/houshin.htm
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by wata1150 | 2006-07-21 18:53 | 日本滞在記
我が家の子供たちは、皆勉強が大好きなようです。なかなか学校を卒業しようとしません。

長男は、病気の為、まだ卒業できず、以前に書いたように病気と闘いながら学業を続けています。現在は医学部の5年生、来年は6年生で国家試験を受ける予定です。国家試験の後、研修医として2年間研修を積まなければ一人前の医者にはなれません。あと、少なくとも3年半は私の脛をかじるつもりのようです。浪人も無く、留年も無ければ、既に卒業し、就職しているはずの年齢ですから。長い間、病院と縁の切れない生活を送ってきましたので、体力は無いし、社会にでて就職するには、自信が無い様子で、本人は出来れば大学に残り、臨床よりは研究分野で仕事をしたい様子です。口に出しては言いませんが、アメリカに留学し、そのまま残りたい気持ちもある様子です。

次男は、高校のときに漫画アニメを楽しむサークルを主宰し、授業時間はほとんど睡眠時間だったそうです。ただ、同級生達と話をするのと同じように先生達と話をし、交流していた為か、成績は思ったより悪くならずに卒業したようです。但し、大学受験はアニと同じく医学部を受験して2度敗れ、3年目にあきらめて薬学部に入学、今は留年もせずに来た為、4年生です。兄より一年早く卒業を迎えそうです。と思ったら、大学の先生達に勧められ、大学院に進むつもりになり、推薦を受けて、入試を受けてきました。薬学部は来年から6年になる為、今4年で卒業し、国家試験を受けて薬剤師の資格をとっても、やがては6年制を卒業した薬剤師に比べて下になる可能性があるとの事です。それならばと、大学院に行って先を見越したレベルに達してから卒業を、と本人は思ったそうです。ただ、高校のときはほとんど勉強はしなかったのに、大学の勉強は気に入ったのか、楽しんで勉強をしている様子です。自分のやりたい道を見つけつつあるのかもしれません。

末の娘は、先日やっと高校を卒業しました。私立の受験校だった為、成績はそれ程悪くは無かったのですが、歯学部を受験し、見事に落ちて現在は天下御免の浪人生です。来年は歯学部に届く成績ならば歯学部、出来なければ薬学部を考えているようです。私の顔を見ると、”パパ、後何年か、私が大学卒業するまで、頑張ってね!”だって。クソー。俺は娘のスポンサーかよ!うん、そうだよね。娘なんだから。まあ、仕方が無いか。

ということで、我が家の子供達は、まだ当面社会に出る予定を持っていない状況で、少なくともあと6年以上は親のすねかじりが続きそうです。

妻と話し合いました。私の仕事が不安定で、しかも住宅ローンを抱え、経済的にもアップアップな状況下、収入を安定化するためにも、とりあえず妻の塾の仕事を拡大する方向にしました。チラシを撒き、生徒を集め、できれば第二教室を開き私の収入は臨時収入程度に考えることが出来るようになるまで拡大しようということです。幸い子供達も手のかかる時期は既に過ぎてますので、妻は仕事に全力投球できます。

私の弟や妹に言わせると、其処まで苦しみながら何で子供を学校に行かせるのか、学校を辞めて就職し、家計を助けさせてはどうかというようなことを言います。その考えを否定は出来ません。多分当たり前の考え方だと思います。事実多くの子供達が勉強したくとも経済的な理由から進学せず就職しています。しかし、私と妻は十数年まえ、同じことを考え、そして命がけで最大限の勉強をさせてやろうと決意しました。ですから、苦労は覚悟の上ではあったのですが。

それにしても、早く卒業してくれないかな、就職してくれないかなという気持ちはとても強くなってきています。そんなときに子供達は無邪気に大学院だとか留学だとか、浪人だとか、全く”親の心、子知らず”ですよね。
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by wata1150 | 2006-07-06 01:28 | 日本滞在記
今回は、極めて個人的な内容なので、書く事に大分ためらいがあったが、思い切って書くことにした。

私が失業中であるため、妻の仕事は現在の我が家の唯一の収入源である。
従来私は、妻の仕事に口を挟んだことも無いし、職場に足を運ぶことも遠慮しがちであった。しかし、失業中であるがゆえに、有り余る時間を利用し、職場を覗いてみた。

思い起こしてみれば、妻はいろいろな仕事をして、家計を助けてきた。最初の仕事は、横浜に住んでいた頃にやっていた”チラシ配り”だったか。新聞に入っているようなチラシを一枚一枚ポストに投げ込む仕事だった。いつも、深夜になると数百枚程度のチラシをバックにいれ、マンション街へと飛び出していった。慣れてくると、一度に数千枚を扱えるようになっていた。深夜だけでは間に合わないようになると週末に車に千枚程度のチラシを乗せ、マンション街を配り歩いた。報酬がどの程度であったかは覚えていないが月数万円程度にはなっていたのではないかと思う。それらのお金は、子供達の塾の費用や、長男が病弱だった為頻繁に掛かっていた医院の費用、不足気味だった家計の足しに大いになった筈である。

長男の喘息がひどくなり、我が家は仙台に越してきた。越してきた当時は妻は仕事どころではなく、長男の喘息の対応で息つく閑も無かった。が、私が横浜で単身赴任となった為、家が落ち着くと早速仕事を始めた。二重所帯となったのであるから、家計は横浜にいたときよりも大幅に増えてしまっていた。それを補う為に始めたのである。学研の児童図書の取次ぎなどもやった。ほとんど自分の為には使わず、子供達や家族のために使っていた。

やがて、仙台の我が家の10畳の和室にテーブルを並べて、熟の真似事をやりだした。元々、子供の教育には熱心な性質だった。自分が、子供のときに経済的な問題から、近所のほとんどの子供が通っていた塾には行けず、悲しい思い出があったらしく、塾の費用は利益がわずかにある程度の安い費用で、近所に住む子供を数人集め、我が家の子供達に勉強させながら、同時に教えていた。

最初は生徒は一人だけだったと思うが、やがて二人、三人と少しずつ増えてきた。生徒が増え、10数人になると、我が家の10畳の和室では収容しきれなくなった。そこで北仙台のビルの一室を借りて、第二教室とした。コピー機や、白板などを買い、設備を向上させていった。仙台で、東京や横浜の学習塾に参考書などを供給している出版者を見つけ出し、その参考書をメインに使用し、”東京や横浜の熟と同じ内容”を売り物にした。東北大の学生を講師のアルバイトとして雇いだした。生徒も30人か40人くらいになり、北仙台教室は間仕切りをして教室を分割し、生徒の収容力を上げた。それだけ生徒が集まるようになると、彼女の利益もそれなりに増え、家計も一時は多少潤ってきた。

しかし、熟に追われて肝心の我が家の子供達への世話が手薄になり、何時しか、北仙台を閉じる検討を始めた。本来、我が家の子供達への教育が目的で、そのためのお金を得ることが目的であったから、それは至極当然と言えた。しかし、教室に通ってくる生徒は、彼女を当てにし、熟を閉じることに大反対であった。その頃、仙山線陸前落合駅の前に、プレハブの2階建てを建てて、塾を招致している方があった。彼女はそれに目をつけ、其処を借り、塾を北仙台から陸前落合に移動することで生徒たちの納得を得た。教室の面積もほぼ2倍に増えたので、アルバイトの学生を増やし、損は出さないようにしながら、生徒数を伸ばしていった。また、陸前落合の教室は我が家から車で10分と至近距離になって、彼女の家事の時間も若干増えた。更にチラシを作って生徒を集めることも積極的に行っていたようである。一時は、生徒数は70人くらいにまでなっていた。

しかし、彼女も悩みを抱えていた。彼女にはリウマチの持病があった。横浜に住んでいた頃に発病し、しばらくは放置していた為、左腕の関節が腫れてしまい、腕がまっすぐに伸びない。しかも気候や気温、湿度の変化が有ると、痛みを覚える。忙しさにかまけて一時は通っていた整形外科にも通えなくなっていた。そのため症状は更に悪化し、ひどいときには車の運転が出来なくなるほどであった。教科書や参考書の入った鞄も持てない。そんな苦しさにも耐え、とりあえず塾の経営は何とか続いていた。

少子化の影響、デフレによる景気の後退などで、生徒の数が激減したりで、今は生徒数が一時の半分強位まで落ち込んでいるが、アルバイトの人数を減らしたり、教室のスペースを減らして、家賃を低減したりと工夫をしながら、何とか今日まで持ちこたえてきた。そして、上の息子は、喘息を抱えながらも、青森県弘前市の大学に入り、仙台を離れたが、次男は大学も仙台で、妻の仕事をよく手伝い、また家事をも手伝って、助けてくれている。

一般的には、最近では結婚して女性は専業主婦、ということも少なくなり、女性も外に出て仕事をすることは珍しいことではなくなってきている。しかし、私や妻の世代ではやはり女性はやはり専業主婦、という感覚が根強い。したがって妻が結婚後、仕事をし、収入を得だすと、家庭内における権力バランス(このような言い方は変だと思うが)が変わってくるのは仕方が無いのかもしれない。実際、妻の母親などは、女性が仕事をすると、亭主に対しての謙虚さが無くなり、また感謝の気持ちが希薄になりやすいので、女性は結婚したら仕事をすべきではない、などと今でも言っている。事実、私が家にいると、そういった状況はよく見受けられる。が、私も無収入である現状では何も言えない。私は、今は、台所仕事でも、彼女の運転手兼雑用係も黙って行わなければならない。

私が、今回失業したことで、家計はまたまた大ピンチになった。が、彼女はチラシを打ち、生徒数を増やすことで、少しでも収入減をカバーしようとしている。私としては感謝に耐えない。そして、何とか早く新しい仕事が見つかれば、と人材会社に連絡を取ったり求人誌をみて、何か良い仕事は無いかと探したりしている。

彼女は、私が思うに、愛情こまやかな、世に言う良妻というタイプではなく、むしろ男性的な性格をも持っているタイプの女性である。が、本質的には、自分のことより、子供達や家族を大切にし、一生懸命生きるタイプで、私にとってはかけがえの無い人だとおもう。そして、何とか早く仕事を見つけ、彼女を楽にしてやろうと思わずには居られないのである。
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by wata1150 | 2006-07-05 02:54 | 日本滞在記
千葉から、仙台まで帰る途中、私が横浜に持っているワンルームマンションの賃貸の件と、糖尿病の主治医に会うため、横浜に寄りました。朝、前日宿泊した津田沼のビジネスホテルから東急東横線日吉に向かいました。日吉でドクターの診察を受け、不動産屋さんと話をし、昼食を摂り、綱島の駅前の喫茶店でコーヒーを飲んでいたとき、その電話はなりました。

電話は妻からでした。長男が入院したと言うのです。「再発したのか?」と私。「そうらしい」と妻。「わかった。明日の朝、弘前に行く」

私の長男は、昭和53年の生まれです。現在は27歳、今度の誕生日が来ると28歳になります。彼は小さい頃から病気がちでした。小さい頃は喘息で苦しみ、小学校に入る前までは、夜眠ると咳で起き、眠れない為、私はよく彼を膝に抱き、彼は私を背もたれにして、眠りました。小学校に入っても症状はよくならず、頻繁に喘息を起こし、チアノーゼを起こした彼を、深夜に救急病院に連れて行きました。小学校の6年生の時には、私の実家のある宮城県の国立病院の喘息児病棟に一年間入院しました。学校を併設した専門病棟です。当時私たち家族は川崎市に住んでいましたが、川崎では喘息は悪くなっても良くはならないから、空気の良いところに引越しをした方が良いのでは、とのドクターの勧めで、宮城県の西部にある、現在の家を購入し、引越しました。私は仕事は横浜でしたから、私が単身赴任で横浜で生活することにしたのです。中学に進んだ彼は、喘息が全く無くなったわけでは有りませんでしたが、それでも大分頻度が少くなり、体力もついてきて、落ち着いた生活が出来るようになりました。

彼は、自分が病気がちであったことで、いつか医者になる夢を持ち、それなりに勉強するようになりました。が、大学受験で最初の年は学力不足で、いわゆる浪人生活を余儀なくされました。2年目に弘前大学の医学部を受験し、運良く合格し弘前にて単身学生生活を送るようになりました。大学一年の夏、彼は体調不良を訴え、事実体重も十数キロも減少し、仙台の家に夏休みを利用して帰ってきました。大学に入ったことによる、安心感や、単身生活を送る不安感、不規則な生活を送っていることなどによる体調不良と軽く考えていました。近所の病院に行き、いろいろな検査をしましたが、特に異常は発見できませんでした。

しかし、不安があったため、近所の病院から紹介を受け、仙台では紹介患者や、病名が特定できない困難な病気などを専門にしている、ある大病院に入院したのです。そして、内視鏡検査など様々な検査を受け、告げられた病名は”クローン病”。大腸に潰瘍ができているとのことでした。私はこの病気を知りませんでした。ドクターに教えてもらったことは、”特定難治病”として指定されており、治療費は国庫負担であること、現在治療法が発見されておらず、完治は不可能であること、一旦症状が治まっても再発すること、症状を緩和させるには水を含み完全絶食しかないこと、症状が治まっても、食事制限は継続されなければならず、ほとんどの食べ物は食べてはいけないこと、などを聞かされました。また、発病者は10万人に1人くらいの確率であること、20歳から30歳くらいの若い人にのみ発病し、高齢になると、ある程度収まってしまうことなどを知りました。

幸いにも、彼が在学する弘前大学はクローン病の治療や研究で日本国内では比較的進んでいる大学との事。早速、弘前に戻り、仙台の病院の紹介状を持って入院しました。胸に穴を開け、肺静脈に直接栄養材を流し込み、口からは水を含む一切の摂取をやめ、症状の緩和を待ちました。その年は、どうにか持ちこたえましたが、翌年、再度発症し、留年を余儀なくされました。そして翌年にはついに手術をし、大腸の患部を15cmほど切除しました。しかし、大学の単位は取得できず、2回目の留年、翌年も前年の影響から、勉強が間に合わず3回目の留年をしました。しかし、その後何とか勉強も追いつき、現在は5年生で、実習を中心に頑張ってきました。

そんな最中の再度の発病、再入院でした。私と妻は車で仙台から弘前に行き、本人の顔色を見、ドクターの話や、治療方針、治療方法についての話を聞きました。今は、症状はそれほどひどい状況ではないこと、ただし、放置すれば再度手術をするようになること、来年に医師の国家試験を控えていることから、何とか今のうちに抑えておき、来年に再発症をしないようにしたいこと、などの状況から、数年前から世界各地で使われるようになってきていた新薬”レミケード”という免疫抑制剤を使うことを提案されました。国内でも最近はよく使われるようになっているようですが、まだまだ実績は少なく、弘前大学でも80数人の患者の中で使用しているのは13人に過ぎないとのことでした。また、多くの副作用が想定されている為、かなり十分に管理されている状況でなければ使えないことなどを説明されました。私個人は使うべきと思いましたが、息子にその選択は任せるべきと思いました。同じ医学の世界に身を置こうとしている事、27歳と言う、十分に自分で決断できる年齢に達していることなどが、その理由ですが、妻は万が一の不安を打ち消せず、非常にナーバスになっているようです。弘前に一泊し、息子の顔をみて、仙台に戻ってきました。近日中に息子は自分なりの結論を出すでしょう。

現在、私の家族は、様々な病気を抱えています。私は糖尿病で7~8年薬を飲み続けていますし、妻はリウマチです。大学4年の次男は先日病気ではないものの”脂肪肝”を指摘されました。こんな中でも、何とか仕事をし、学業に励み、日々の生活を送っているのです。最近では早く子供たちが卒業し、社会人になって自立し、私の経済的負担、病気などの心理的負担が軽くなる日を夢想することが時々あります。

そんな中での就職活動が続きます。
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by wata1150 | 2006-07-02 23:28 | 日本滞在記

仙台から

仙台に帰ってきました。

仙台は霧雨、気温は20度以下、とても寒く感じられました。何せ、上海では日中の気温は35度、夜でも25度から28度くらいありましたから。上海仕様で半そでのシャツをアンダーシャツ無しに着て、仙台空港に降り立ちましたが、家について、冬物の長袖のシャツを探して着替えましたが、それでも寒い感じでした。(今日は少しなれましたが)

昨夜は、自分の家に帰っても勝手がわからず、少しうろたえました。
水を飲もうとして冷蔵庫を開け、「あ!ここは日本、水道の水を飲めばいいんだ」、「TVのチャンネルを回してもまわしてもCCTV-5がでてこなくて、サッカーを見れない!あ、NHK-BSだ!」、トイレに行って、水を流すレバーを探して、上海の家とは反対側に有るのを見つけるのに手間取ったり。結構習慣と言うのは恐ろしいなあ!と、変に感動しました。

今日は昨日まで降っていた小雨、霧雨も上がり、太陽が顔を覗かせたので、我が家の庭の「子供たち」の様子を見にでてみました。玄関脇の生垣の隅にどくだみが生えてきていて白い花をつけていました。どくだみは臭いがきつく、私はあまり好きではありませんでしたが、白い花があまりにも可愛い感じでしたので、しばらく放置しておくことにしました。
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庭の置石の傍らに釣鐘型の白い花をつけたものがありました。昨年まで、ありませんでしたので、多分種が風に飛ばされてきたのか、鳥が落としていったのか定かではありませんが、新しい仲間です。面白い花なので、増えていって欲しいな、と思います。
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今年も、雑草に混じってハーブが顔を出していました。葉に触って臭いをかいで見ますと、ハーブ独特の良い香りがします。まだ背は低いのですが、30cmくらいの高さに育つので、そうしたらハーブティを試して見ようかと思います。
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春に帰宅したときに白い花をつけていた桃の木、小さな桃の実がたくさんついていました。この桃は食べることはできないのだそうで、大きくもならないだろうと思いますが、細く小さなこのような木でも、生命の営みは確実に行われているのです。
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そして、庭の生垣で少し日当たりのよくない片隅に植えた紫陽花、小さなつぼみを数個つけていました。東京よりは気温が低い為、開花は遅いようですが、これからそれらが少しずつ綺麗な花を咲かせるのだろうと思います。どのくらいの期間私たちの目を楽しませてくれるのか。
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例年生垣の剪定は年末11月頃にやっていたのですが、今年は年が明けてからやりました。植木屋さんのスケジュールが合わなかったからです。おかげで、黄金ヒバの生垣はまだ十分に葉が生えきらず、すきまだらけです。が、日当たりの良いところは若緑色の新芽が吹き出していて、やがてはぼうぼうとした葉に覆われることでしょう。

そして、木を植えていない中庭はたくさん置いてある植木鉢に覆いかぶさり、日当たりをさえぎるくらいに、雑草が生い茂っていました。何日仙台にいることになるのかはわかりませんが、せめて雑草を少しでもむしっておきたいと思います。

明日は、千葉、東京に行きます。
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by wata1150 | 2006-06-26 19:41 | 日本滞在記

2ヶ月ぶりの帰宅

2ヶ月ぶりに仙台の家族の下に帰りました。当初の予定では、帰宅はしないで上海に変える予定でしたが、飛行機の便の関係で、14日までの日本滞在を余儀なくされ、急に週末の時間が空いてしまったので、帰宅することにしました。ホテルの人に訳を行って、キャンセル料金なしで急遽チェックアウトし、上野から東北新幹線です。

当初、帰宅の予定が無かったので、家には帰宅することを告げていませんでした。それで、土産も何も上海から買って来ませんでした。が、娘にメールし、帰宅を告げました。

あいにく、12日(日)は国立大学の二次試験日で、娘もT大学のK学部を受験することになっています。ま、本人によれば、今年は浪人して、来年希望の大学に行きたいとのことで、今年は合格せず、模擬試験のつもりで受験するとのことでしたが・・・。しかしそのために時間拘束され、私としては、何も特別なことは出来ません。娘を試験会場に送ったり、待ち受けたり、空いた時間は最近、新車に乗り換えようとしている妻に付き合って、自動車販売店めぐりをしたり。

上の息子は、弘前で学生生活をしており、年末年始には帰省しなかったので、この春休みには2週間ほど帰省するとか。残念ながら私とはタイミングが合わず、顔を見ることは出来ませんでした。彼は4月から5年生。実習とかが多くなり、また卒業時に行われる国家試験の準備とかで、結構忙しいそうです。

下の息子は地元の大学に通っており、いまは年度末の休みです。妻の仕事を手伝ったりしていますが、4月から最上級生になる為、準備をしています。研究室の話とか、卒業に向けての準備とか、国家試験の準備とか・・・。彼も、車が欲しいらしく、私たちに付き合って、自動車販売店めぐりをしました。最近は、大学生や大学院生も結構車で通学する人が多いらしく、自分もそれに影響されて、欲しいのだろうと思います。

あれやこれややっているうちに、2日間はあっという間に終わってしまい、また新幹線の人になってしまいました。次は、何時帰宅できるかわかりませんが、今度は妻を連れて一泊2日か2泊3日で、温泉にでも出かけようかと思います。

明日から、仕事再開です。
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by wata1150 | 2006-03-13 01:22 | 中国国内旅行・出張

St. Valentine's day

一昨日はSt. Valentine's dayでしたね。日本では女性が男性に愛を打ち明ける意味でチョコレートをプレゼントする日・・・かな?

私が以前勤務していた会社では、この日になるとチョコレートが入った車内メールが飛び交いました。あまりにもたくさんのチョコメールがメール室に持ち込まれるので、最後には、チョコメール禁止令がメール室から発信される始末でした。何しろ、日本全国をチョコメールが飛び交うのですから、物理的に配送の人が大変なだけではなく、会社の配送費用もこれまた大変だったようです。大阪の某営業所の女子社員から横浜の会社のだれそれ君宛のチョコメール。今考えても、ニヤニヤしてしまいます。

ま、大概は義理チョコ。女子社員が日頃お世話になっている職場の男性社員や上司の人に、また、営業所の女子社員が担当製品を生産している事業場の担当者や上司にプレゼントします。中には、海外販社からのチョコメールもありました。

次は無理チョコ。チョコを一個ももらえそうも無い男性が女子社員に事前ネゴして、当日わざとらしくチョコをプレゼント。前の日になると、”おい、俺にもチョコ、あるんだろうな?”などと若い女子社員を脅かしたりなんかして。

その中で、本命チョコなんてのもありましたっけ。義理チョコや無理チョコは、大概普通の市販のチョコを綺麗な包装紙に包んで、リボンをかけただけのものが多かったと思います。が、本当に好きな人に渡すチョコは、チョコブロックを買ってきて、お湯で溶かし、好きな形にして一個一個を丁寧に包んだような手作りチョコをハートの形の箱に入れた物や、小さなバスケットに入れて、時には短いメッセージを添えて渡していたようです。しかもそれは、当然ながら会社にいるときは知らん振りをして、帰りがけを狙ってこっそり渡すとか。
そんなチョコをもらったほうも焦ってしまいますけどね。

中国でも、St. Valentine's dayはあります。情人節といいます。この時期になるとデパートや、スーパー、お菓子屋さんなどの店頭には、いかにもそれらしく包装を施したチョコレートが山積みされています。でも、中国では女性から男性へのプレゼントとは限っていないようで、男性から女性にプレゼントする場合もあるようです。また、必ずしもチョコレートとは限らず、男性からのプレゼントは花束とか時計とか宝石とか指輪など、女性から男性にはネクタイとかベルトとかが多いのだそうです。また、その日には夕食を一緒に食べることが多いのだそうで、おいしいと評判のレストランなどは、かなり前から予約しなければいけない場合もあるようです。

日本では、ここ数年、もうそんなこともすっかり忘れて過ごしていましたが、一昨年くらいから娘が"Valentine call"をくれるようになって、単身赴任中の親父心をくすぐってくれました。で、その次の帰宅の日には、携帯電話とか、お小遣いだとかをねだられ、散財していましたっけ。さすがに上海からは娘にプレゼントは簡単ではありませんが、今度の帰国の時にはまた、娘に何かを買わなければ・・・と思っています。
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by wata1150 | 2006-02-16 21:33 | 上海
冬季オリンピック、トリノ大会はまもなく開幕です。トリノは行った事はありませんが、昔、やはり冬季オリンピックが開催されたフランスのグルノーブルに一ヶ月ほど滞在したことがあります。グルノーブルはアルプスのふもとにあるフランスの地方都市で、日本食レストランさえ無く、中華料理とフランス家庭料理とおいしいワインで一ヶ月を過ごしたことを覚えています。

トリノも、イタリアの地方都市で、アルプスのふもと、そしてイタリアワインが飲めると言う点では、グルノーブルによく似ているのではないかと思います。普段は静かな都市で人口もさほど多いわけではないのですが、このオリンピックの期間中だけは大都会並みの人であふれかえるのだろうと思います。

私は、冬季スポーツはスキーくらいしかできず、しかもそれ程上手い訳ではありません。
スケートも数回やったことがあるという程度、その他の種目は全くやったことがありません。それだけに、リュージュやボブスレーの速度、滑降、大回転などの速度を競うスキー種目、100メートルも空中を飛ぶスキージャンプなど見ていて、はらはらどきどきの種目が目白押しで、とても楽しみです。
日本選手の活躍も楽しみです。女子フィギュアスケート、スノーボード、など多くの種目にメダルの期待があります。でも、私は自分ができないだけに、華麗なアイスダンスとかスキーで競うマラソンのような距離競技なども好きです。

私の娘が小学校に入る前くらいのこと。娘にせがまれて近所のファミリーゲレンデに行きました。ほとんどが緩斜面で、さほどスピードも出るわけではなく、私はまだ若いこともあって、自分で滑ってもさほど面白いわけではありませんでした。ただ、娘に早い時期にスキーなどの冬季スポーツに親しんで欲しいと思い、何度か連れて行ったのです。しかし、娘は風が吹くと怖いと言い、リフトに乗れば怖いと言い、結局ずーっと私に抱きかかえられながら過ごしていました。数年前、彼女が中学生になったとき、再び同じゲレンデに行きました。娘はいきなりリフトで上まで上がり、ほぼ直滑降で降りてきました。私はというと、緩斜面でも、急斜面に思え、ボーゲンでやっとこ下りてきました。たった6-7年で立場が逆転してしまいました。
でも、彼女は中学、高校と冬場になれば何度か学校のスキー教室とか、友達と遊びとかでゲレンデに向っており、恥もかかずに滑っているようです。小さかった頃のことを話してやると、“あ!そー。そんなこともあったの?”とまるで他人事のようです。息子達も、それなりに滑っているようで、そんな話をしている子供たちを見ては、一人で“にんまり”しています。

上海に来て、初めての冬を過ごしています。十分に寒い上海ですが、雪は降らず、スポーツショップに行ってもスキーは売っていません。スキーと言っても知らない人もいます。上海の近所には天然のスキー場は無いようです。人工スキー場はあるそうですが、どこにあって、どの程度の規模なのか、誰も知りません。
そういう上海市民にとって冬季オリンピックはスケート競技には関心あるかもしれませんが、スキー競技はあまり関心を持つ人は少ないかもしれません。中国人の活躍もスケート競技が多いですし。でも、少しでも多くの中国人にもスキー競技の面白さを知ってもらう良い機会かもしれません。
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by wata1150 | 2006-02-10 19:48 | 日記