中国で単身生活をすることになったTADAの日々の感じた事を気ままに書いてます。


by wata1150
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UAE編 第5回です。

夕方になって、代理店のD氏がホテルまで迎えに来てくれました。これから仕事をして、8時頃から夕食だとのこと。午後は、彼は家に帰って、昼食をとり、4時まで昼寝をしていたとのこと。5時から8時まで仕事、8時から11時くらいまでゆっくり食事を取り、家に戻るそうです。朝は6時に起きて、7時から11時まで仕事をするのだそうです。仕事をする総時間は7時間ですから、我々とさほど違わないのですが、昼休みを長く取るところなどは、アラブの気候に合わせているのだと思います。

彼はインド人で、親がUAEに出稼ぎに来て、そのままUAEに住んでいるとの事。イスラム教徒では無いそうで、朝夕の礼拝はしないのだそうです。彼は会社の経営者ですが、オーナーはアラブの人で、いわば雇われ社長です。外国人は、UAEでは会社を持つことはできないのだそうで、オーナーはアラブ人で無ければいけないとのことでした。(今でもそうなのかは知りませんが。)

グレーのベンツを駆って、彼のオフィスに連れて行ってくれました。ホテルから10分くらい走ったところにオフィスはありました。彼の会社はコンピュータの部品を販売しています。我々の商品も扱っています。従業員は、彼以外は全員女性でした。皆、インド人かパキスタン人の2世です。イスラム教徒はいません。女性でもベールはせず、普通の洋服を着ています。少し、当てが外れた感じは免れませんでした。折角アラブに来たのですからアラブの装束を着た人たちに会いたかったのですが。

オフィスには数人の男性客が来ていました。後で紹介してもらい解ったことですが、一人はクエートのコンピュータ部品会社のバイヤーで、白いアラブ服を着て、UAEにコンピュータ部材を買い付けに来ていたとの事。聞いて見ると市場で日本メーカは人気があり、品質が良いから、少々高くとも売れる、特にSONY、PANASONIC、ALPSなどは有名・・・・、などという話を聞かされました。クエートはUAEと同様、西側に近く、コンピュータ文化もUAE同様、アラブ諸国の中では進んでいる方との事です。が、残念ながらUAEドバイにフリーゾーンが出来て、世界の各メーカはドバイに販売会社やディストリビューションセンター、製品や部材の倉庫を作っており、周辺国はドバイまで買いに来る必要が有るとの事。

この、D氏にしても、クエートのバイヤーにしても、英語が業務の標準語で、アラブ語も出来るが、仕事ではほとんど使わないとのことでした。
 
また、後ほどD氏の会社を訪問した人は、黒人で、ケニヤのナイロビにあるコンピュータ会社の社長でした。ケニヤのコンピュータ事情などを話し合いました。ケニヤの首都ナイロビはドバイに劣らず、ビルの林立した都会で、コンピュータも盛んに導入されているとの事で、コンピュータビジネスは花形であるとの事。多くのコンピュータショップがあり、この黒人はドバイに来て部材を買い付け、コンピュータショップに販売しているとの事。ただ、アフリカでは南アフリカや、エジプトのカイロの方が市場としては大きく、内陸はどうしても遅れていることを何度も繰り返して、話していました。

話は飛びますが“アフリカの靴屋さん”の話をご存知ですか?

2件の靴屋さんがアフリカに進出しようと、セールスマンをアフリカに派遣しました。二人がアフリカに行き、本国にそれぞれ次のように報告しました。
一人は、「アフリカの人は、皆はだしで歩いていて、誰も靴をはいている人はいない。だから、進出は当分見合わせることにしたい。」と。
そしてもう一人は「アフリカの人は、皆はだしで歩いていて、誰も靴をはいている人はいない。だから、大至急たくさんの靴を輸出して欲しい。いまが進出のチャンスだ。」と。

ケニアの人にあったとき、私はこの話を思い出しました。D氏に「ケニアに行き、拡販の可能性を探って欲しい」と。彼は素直には頷かず、「待っていてもお客さんはこの通りケニアから来てくれる。だから、お金をかけてゆく必要は無い。」と。「では、ケニアの市場規模は?」「知らない」・・・ではこの黒人のバイヤーは知ってるかな?・・・やはり、「知らない」。
「むー!市場を知らずして、どうやって商売するんだ?」

私は、この二人に市場の現状を知り、将来を予測し、それで自分の仕事の展開を考えなければ・・・・、と説得しました。そのとき二人は私の説得は完全に理解し、同意してくれたのです。

でも、結局D氏も、黒人の社長も腰を上げることはありませんでした。旧態然とした商売を継続していたようです。それでもしばらくは何とかビジネスをやっていたようです。しかし別のシンガポールの会社が、代理店としてドバイに進出し、やがてD氏からの注文は途絶えたようです。

今回はここまで。
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by wata1150 | 2006-09-25 20:48 | TADAの海外体験談
ドバイ編第四回です。

UAEは日本との時差が5時間あり、日本の正午にはドバイでは朝7時になります。つまり、UAEに私が入国したとき、日本では午後2時頃だったのです。

日本との連絡用で、もちろんノートパソコンとインターネット接続設定を準備していましたので、兎も角入国でき、ホテルにチェックインできたことを連絡しようと、ホテルの電話回線を使って、インターネットに接続を試みました。

現在はADSLなど、大概のホテルはインターネット接続はサービスとして設置されているのですが、当時はほとんどダイアルアップ接続で、日本で接続用の電話番号を調べ、パソコンで設定しておかないと接続できないのです。私はプロバイダーとしてAT&Tを使っていました。ダイアルアップの国際ローミングの場合、世界で最も広範囲に接続拠点を持っていたからです。そして、念のため、クエート、サウジアラビア、イスラエル、なども拠点を調べパソコンに設定しておきました。

で、あらかじめチェックしていたUAE国内のプロバイダーに接続しようとしたのですが、なんと繋がらないのです。パソコンを使ってダイアルアップで接続すると“ピーヒョロロロ!”という音が聞こえるのですが、“ピーヒョロロロ!”が聞こえず、呼び出し音が聞こえるだけなのです。何度かやり直してみましたが、やはり結果は同じです。電話番号が間違えていたのかも知れないと思い、UAE国内での接続は諦め、クエートに接続してみました。が、結果は、UAEと同じでした。イラクやイスラエルなどにも繋いで見ましたが、同様につながらないのです。“やばい!インターネットが使えない!”原因はわからないので、解決策が見つかりません。

ホテルに聞いてみることにしました。フロントに下りて、スタッフを捕まえて話を聞いてみました。が、どうも要領を得ません。格安の有名ではないローカルホテルを利用してしまった為、インターネットの話をしてもあまりピンと来てない様な雰囲気です。当時はインターネットが誰でも使えるような環境ではなく、ましてや中東の国々では、西洋との間に文化的な情報についての規制があるような噂もありましたから、仕方が無いのかなと思いました。

仕方が無いので、兎も角体を休めてから再度挑戦すべく一眠りすることにしました。

現地時間の昼過ぎに起きて、まずは腹ごしらえ、と思いカフェテリアに行ってみると、なんと休憩時間なのです。スタッフは誰もいません。小さなローカルホテルですから、24時間オープンのルームサービスなども無いのです。フロントに行き、女性スタッフに聞いて見ると、「午前中は、カフェは開いているが、正午から4時までは休憩時間で誰もいない、スタッフは皆お昼寝中」とのこと。「日中の気温が50度にもなる為、お客は早い昼食をとった後、皆昼寝をし、夕方から仕事をする」というのです。売店も閉まっており、水を買うことも出来ません。

一歩外に出てみると、そこは灼熱地獄、歩いている人の姿は皆無でした。レストランや、コーヒーショップも開いていないのです。風は無いのですが、地面から熱い空気が昇ってきて、私の体を熱してくれます。これは参りました。

冷蔵庫の中にあったジュースを飲み、パソコンと格闘をしようと決めて部屋に戻りました。
中近東が駄目なら、いっそ日本に繋いではどうか、と思い、日本に国際電話で繋いで見ることにしました。すると、あっさり繋がってしまいました。E-Mailが数十件、あっという間に落ちてきました。“よし、これで、コストは掛かるが、とりあえず連絡は取ることが出来る!”と、一安心です。次に低コストを考え、シンガポールとインドネシアに繋いで見ました。共に、すんなり繋がりました。で、UAE,クエートに再度接続を試みました。電話番号は日本に繋いで、HPから再確認しました。が、やはり、駄目でした。なぜか中東各国には繋がりません。原因解析は別のときにすることにしました。ともかく、E-MAILはOKになりましたので。

今回はこれまで!
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by wata1150 | 2006-09-23 11:55 | TADAの海外体験談
ドバイ編第三回です。
なんかイントロが長いような気もしますが、実はそのあとをどのように続けるかで四苦八苦していますので、イントロでごまかしているのです。

何の手違いか、到着日が当初申し込んだ日とずれているようです。問題の原因はわかりました。でも、暑さと緊張感とでふらふら。解決策は?明日まで待つか、一旦シンガポールに戻るか。

後でわかったことなのですが、ドバイは暑いため、日中の飛行機の離着陸は無く、空港は閉鎖されるのです。滑走路のアスファルトも溶けてやわらかくなる暑さなのです。おまけに7月はこの地ではもっとも暑い時期、日中の気温は50度にもなります。それで、空港のオペレーションは夕方8時頃から午前7時頃まで、午前3時頃はもっとも離発着が多い時間帯なのです。

さて、VISAの話に戻りますが、7時頃に再度ホテルに電話をしました。すると、今度は女性が出て、いま掛かりの人がVISAを持って空港に向っていますのでしばらくそこで待っていてください、とのこと。ホッと一安心するとともに、何故そんなに早くVISAが準備できるのだ?と疑問が湧いてきます。疑問解明は後にして、ともかくホテルにチェックインし、冷たい水を飲み、ベッドの上で一眠りしたいというのが本音でした。

なんでそんな時間にしかも短時間で新しいVISA発給できるかって?これは私の想像ですが、ホテルの人が私の入国期日を間違えていたのだと思います。VISAは既に発給され、ホテルに保管されていたのを持ってきただけのようでした。さらにそのホテルマンはサービスでホテルまで無料で送ります、だって。ま、タクシー代セーブしたからまあ、いいか。

結局8時頃、やっとイミグレーションを通り、入国することが出来ました。ドバイについてから5時間近くが過ぎていました。イミグレーションのカウンターに座っていたのは、顔だけ出し、後は真っ黒のベールで包まれていた女性でした。顔はなんとも彫りが深く、真っ黒で透き通った目をしていたのが印象的でしたが、年齢や容姿は全くわかりません。ああ、アラブに来たのだ!という実感が湧いてきます。アラビアンナイトに出てくる美女を想像してニヤニヤしていたのだろうと思います。

イミグレーションを通過すると、どこの国でもそうですが、ドバイも例に漏れず、免税売店がたくさん並んでいます。ここでの驚きは・・・販売している女性はほとんどがフィリピン人です。そして何人かはインド系の女性でした。少なくともアラブ系の女性は見ませんでした。無論ベールはしていません。

売っている品物、これがすごい。世界中の酒やタバコはもちろん、ベンツやBMWなどの高級乗用車や、ペルシャ絨毯、世界中の美食家をうならせるであろうキャビア、フォアグラなどの高級食材が山のように積まれています。時計、ハンドバックなどの免税売店の定番商品も、もちろんたくさんあります。時計は、ローレックスやオメガなどの超高級品がほとんどで、それらと並んでセイコーやシチズンなどの日本製品が並んでいたのが印象的でした。私が行ったことのある世界の免税売店の中で、ドバイが一番豪華だと思いました。

空港の中にある銀行で両替を・・・と思ったら、銀行は閉まっていました。早すぎたのか?遅すぎたのか?その代わり、自動両替機が何台も設置されている。なんと日本円からも直接両替が出来るのです。「すっごーい!日本円、メジャーな通貨なんだ。」「では一万円ほど変えておくか?」 いや、日本円はほとんど持って来ませんでした。米ドルで100ドルほど交換しました。(レートは忘れました。)4日間ほど滞在し、ホテル代とスーパーでの買い物以外はこの100ドルで十分おつりが来て、残りは記念に持って帰ってきました。ホテル代とスーパーでの買い物にはクレジットカードを使いましたが。

ところで、UAEの通貨単位は?“ディルハム(Dirham),Dhと書きます。そして、コインはもっとすごい。なんとアラジンの魔法のランプがデザインされているのです。これで、UAE出張のお土産決定! コインを集めて持って帰ることにしました。まさにアラビアに行ってきた最高の記念品です。

やっと入国できました。次回から、UAE探訪です。
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by wata1150 | 2006-09-20 13:27 | TADAの海外体験談
ドバイ編の2回目です。
ちなみに、この話は10年以上も前の話であり、ドバイを良く知っている人の話では、ドバイもすっかり様変わりしているそうですから、私の話を鵜呑みにして、ドバイには行かないで下さい。現在のドバイをよく調べた上で行くように。友人の話では、物価はすごく高くなり、また、ビルも林立し、なかなかの都会になっているそうです。

6月には現地ホテルから、VISA取得は可能とのメッセージが入り、7月に行くことにしました。実はこれは最悪のタイミングなのですが。なぜなら、熱い中東の気候の中でも7月はもっとも暑い期間で日中はとても外には出られません。でも、そのときには全く判ってはいませんでした。

シンガポールからドバイへの飛行時間は実質9時間くらいかかり、シンガポール発は深夜23時、ドバイ着は時差の関係で午前3時ころとのことでした。それで私は成田発朝9時ころの飛行機でシンガポールに飛ぶことにしました。シンガポールで一旦入国し、シンガポールの友達と夕食を食べ、それから再度空港に戻って、夜11時に出発しようと言うわけです。

東京からシンガポールへはJALです。シンガポールでは現地の販売会社の社員でH君やK君が迎えてくれ、海鮮料理で大いに盛り上がり、楽しい時間をすごしました。何せ仕事抜きで彼らと話すことはほとんどありませんでしたから。

シンガポールからはシンガポール航空で9時間、直行便は気持ちよくドバイまで私を運んでくれました。当時シンガポール航空は世界でもっともサービスがよく、安全な航空会社と言う定評がありました。そしてまさに評判通りのフライトでした。私はおいしい食事とお酒でぐっすり眠りました。何せ、長家は、これが当分飲み納めかもしれない、アラブに行ったら禁酒生活だろう・・・、と思っていましたから。

ドバイ上空に着くと機内アナウンスで、着陸機が多い為順番待ちです、しばらくお待ちください、とのこと。朝3時に着陸ラッシュも無いもんだと思いながら着陸時間を待ちました。何故着陸ラッシュなのか、そのときは全くわかりませんでした。それはホテルについてチェックインしてから、やっとわかったのでしたが。30分も上空を旋回したでしょうか。やがてドバイ空港に着陸しました。窓から外を見渡しても午前3時では真っ暗、何も見えません。ドバイ空港の建物自体の輪郭もわかりませんでした。

外気温は多分35度~40度くらいだったでしょうか。
空港ロビーは着陸ラッシュで到着した旅行者で一杯です。私はVISAが無い為、そのままイミグレーションを通ることは出来ません。案内を探しますが、アラビア文字ばかりでところどころに英語表記があるだけです。どこでVISAを入手するのかもわかりません。仕方が無いので“聞くは一時の恥、聞かざるは一生の恥”とばかり、空港職員と思しき人を見つけては聞きまくりました。やっと、ホテル手配のVISAを受け取るコーナーが見つかりました。 名前を言い、到着便名を言ってVISAをくれるように頼み、待つこと15分位、「あなたの名前のVISAは発給されていません」と言われ、係員は部屋の中に消えました。「えー!そんな馬鹿な!」と係員をもう一度呼び、もう一度探すように頼むと、親切に発給VISAが保管されている棚の前に私を案内し、「ほら、今日の到着予定の人のVISAはもうこれでおしまいです」と言い、空っぽの棚を指し示しました。確かに、棚は空っぽでした。困った、入国できない、シンガポールに戻るしか方法は無いのか・・・。時間は午前4時をゆうに回り、気温は35度以上。頭がガンガンします。なかなかよい知恵も浮かびません。売店も無論空いていません。水を飲むこともできないのです。イライラだけがつのります。

5時半頃までは、それでも入国のロビーで椅子に座って考えていたと思います。考えたって仕方が無いのですが。 むしろ途方にくれていたってのが正しいのかもしれません。

よし、最後の手段、HOTELに電話。私はシンガポールで加入したGSM携帯電話を持っていました。ドバイでもつながることは確認していました。で、ホテルに電話すると“自動応答”、どうやら誰もフロントにはいないらしいのです。早すぎるのかな?とさらに30分ほど待ちました。 6時半くらいになって、やっと繋がりました。 「HOTELを予約している者ですが、空港でVISAが見つからず、入国できず困っています。」するとホテルの人はしばらく、私のホテルの予約を確認していたらしく、おもむろに、「あなたの入国は明日になっています。VISAはホテルで保管しています。」「えー!そんな!一日ここで待たなければいけないのか? 馬鹿な!死んじゃう!」何しろ気温は30度以上はゆうにあるのですから。 再び電話で「既にドバイ空港に着いています。今日、入国させてください。」 と頼み込む。「新規VISA発給は朝8時からです。お待ちください。」「えー!8時から?昼まで待つの?」ホテルの人も気の毒に思ったのか、「確認しますので30分後に再度電話してください。」といい、電話は切れました。

第二回はここまで。果たしてTADAさんはUAEに入国できるのか?
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by wata1150 | 2006-09-14 20:38 | TADAの海外体験談
いよいよ完結編です。やっとたどり着きました。

丁度、ナレーターの女性が展示会場に出勤してきました。昨日のジーパン姿と違い、今日は少し短めのフレーヤのスカートになっているブルーのノースリーブのワンピースでした。昨日見たときも、綺麗な人だと思いましたが、今日はそれに輪をかけた感じで、とても人目を引きそうな感じです。 すごい存在感をかもし出しているのです。 

ところが彼女、ブースの机の後ろに回りこみ、ごそごそとバッグの中を探り出しました。何をするのかと思わず見ていました。 すると彼女、何かを探し当て、それからやおらスカートの中に手を入れるのです。思わず、じっと見つめていると、スカートの内側にスプレーをシュッシュッ! なんだ?なんだ?

そうです。スカートに静電気が帯電し体にまとわりつくため、静電防止剤をスプレーしていたのでした。

頭の中で何かピピッ!!! あ、これだ。静電対策発見!!!
ナレーションの女性にスプレーを貸してくれと頼みました。 彼女が何を思ったかは知りませんが、ニコニコ笑いながら、私に渡してくれました。私はそれを持って展示機の前に立ち、スプレー缶を振って、中にまだ十分な量の中身が残っているのを確認しました。そして複写機原稿台のガラスの表面に何度も吹きつけました。それから、表面乾燥するまでしばらく待ちました。 待ち遠しい時間が過ぎました。スタッフの面々も、すぐに気が付きました。散らばっていた皆が集まってきました。再度、そしてこれがダメだったら最後のテストになるであろうテスト開始です。

再び、原稿台に原稿を10枚くらい置き、コピー用紙が十分にセットされているのを確認して、コピースタートボタンON.

一枚目の原稿がスーっと吸い込まれ、コピーされ、原稿は原稿台に戻ってきます。次の原稿が吸い込まれ、コピーされ、再び原稿は原稿台に戻ってきます。何事もなく、10枚ほどの原稿はコピーされ、原稿は原稿台に戻り、コピー作業は無事終了しました。販売会社のスタッフ、ナレーションの女性、誰からともなく拍手が沸きあがりました。その後、誰がやっても、何回やっても上手く行きました。

ところがこの静電防止剤、女性のスカートにスプレーする物ですので、若干の芳香があります。一時的にしのげますが、ホテルの室内などでは、問題です。私はスタッフの責任者に、工業用又は最悪女性用でも無臭の物の入手を依頼しました。彼は私に“金がない、お前の金を出せ”と言います。本当にないのではないでしょうが、なんとなく親近感を抱いたのと、半分冗談で言ったのでしょう。私は、“僕も少ししかない。それを吐き出すと、今晩ギャンブルをする軍資金がなくなる。”と反論です。それをそんな話をしていたところに、販売会社の女子社員が、息を切らせて入ってきました。荷物を責任者に渡します。テスト成功を見ていた責任者、即、静電防止剤を会社の女子社員に購入手配をしていたのです。さすがアメリカ人、やることは早い。

そして、皆が今日はビッグディナーだ、マックにしようか?とからかいます。みんなで大笑いしてしまいました。 素晴しい機転と楽しいユーモア、アメリカ人、素晴しい人種です。

夕方、その日の展示は終了し、軽い夕食後ホテルでの商談会です。商談会では、私は部屋の隅でスタッフが機械を説明し販売交渉をするのを見守っていました。彼らは時々“Hey.Sum.”と声を掛けてくれます。いつの間にか私はSUMと呼ばれていました。深夜10時頃に商談会が終わりました。

部屋に戻り、シャワーを浴び、ロビーに下りてみると、スタッフ達がニコニコしながら待っていました。赤ら顔の巨体も子供みたいな顔をして、ニヤニヤしています。そういえば、今日は名刺交換もしなかったな、と一人一人に自己紹介しながら名刺を配りました。誰も既に戦友であり、友達であり、仲間であり、今さらという感じでしたが、ともかくビッグディナーに繰り出しました。

私もへたくそな(ホントにへたくそで今思い出すととても恥ずかしい思いです。)英語で、それでも一生懸命、しゃべり倒しましたし、現地スタッフの方も一生懸命耳を傾けてくれました。今思っても、あれほど素晴しいディナーは他になかったような気がします。

展示会の期間中、朝、9時ごろからごそごそベッドから這い出し、目覚ましにと、プールに行きます。数名の若い女性がトップレスの水着姿で泳いでおり、現地スタッフがそれを眺めながら、ハンバーグをほおばっているのを横目にギャンブルで遅くまで遊んで疲れた体を癒します。毎晩、皆でギャンブルに繰り出し、私もブラックジャックや、ルーレット、スロットマシーンなどをやりましたが、200ドルか300ドルくらい、負けたのではないかと思います。負けたのは覚えているのですが、いくら負けたのかは覚えていません。でも、展示機がうまく動いたので、あまり勝ち負けにこだわらず、純粋にゲームやカジノの雰囲気を楽しんでいたような気がします。そして、気が付けば、疲れは吹き飛んでいたような気がしました。 もちろん、展示会は成功し、受注額も目標を達成したとか。

一週間の出張を終え、ラスベガスからサンフランシスコへ、そしてサンフランシスコからパンナムに乗り込みました。

余談ですが、パンナム、今はこの航空会社は存在しません。経営難から他の航空会社と合併し、パンナムの名前は少しの期間は残っていたのですが、合併会社は再び他の会社と合併し、パンナムの名前は消えました。“PANAM”当時はアメリカを代表する航空会社。私が乗ったのはパンナム002便 世界一周便、パンナムの看板路線です。ボーイング747を使っていました。

帰国したら上司には叱られるだろうな、でも叱られることを楽しみにしたいような、妙な気分で飛行機に乗っていたのを覚えています。

仕事で、失敗することも、窮地に立たされることもあります。でも、あきらめないこと、ネバーギブアップ、そして、物事は全て前向きに考えること。そして、いつも明るく振舞うこと。これが必要であることを学びました。そして、何事でも必ず解はある、と!

ラスベガス編はこれでおしまい。いつかまた、何かまとまったら、紹介します。
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by wata1150 | 2006-09-07 00:14 | TADAの海外体験談
ラスベガス編、3回目です。

50Hz電源を接続しました。“ちゃんと動いてくれー”声無き祈りにも似た思いが、あたりに充満します。“これで動かなければ展示は中止、商談会もキャンセル“とリーダーは宣言しました。同僚のスタッフ達、ナレーションの女性も無言です。私が電源を接続したり、コピー用紙をセットしたりする為に動き回るときに発生する靴音や、機械の音がやけに大きく聞こえます。多分深夜12時は過ぎていたと思います。

原稿台に何枚かの原稿をセットしました。思わず、“宜しくお願いします”と祈りたくなる気持ちでした。 コピースタートボタンを押します。原稿が一枚吸い込まれていきました。以前は原稿が止まらずに飛び出してくる部分を皆が注視します。しかし原稿は現れません。 代わりにコピーされた紙がコピー排出口から出てきました。成功です!!!

ん?あれ??  原稿が戻ってきません。原稿が戻らないことには、次の原稿が入っていきません。皆が、あれ?どうした?という顔で展示品を見つめます。10枚くらいあったと思う原稿は一枚コピーしただけで止まってしまったのです。私は、これで、電源問題は何とか解決された、と思っていただけに、ショックが顔に出ていたのではないでしょうか。

本来の複写機の原稿台を見ると先ほど送った原稿が所定の位置に止まったままでした。やり直してみるか、と手で取り出そうとした途端“ばちっ”“あっ!!”そうです。静電気の放電です。湿度10%以下超乾燥状態の為、静電気で原稿がガラス面に張り付いてしまっていたのです。これは問題です。低湿度対策なんて、何も考えていませんでした。ラスベガスに来てから、何度となく、“ばちっ”を経験し、金属部分に触ることにとてもナーバスになっていました。でも、紙やガラスに帯電するとは。日本では夏、非常に湿度が高くなります。そんな環境でテストを繰り返したって、低湿度による問題なんか、発見できるわけがありません。この対策方法は・・・・・何も思い浮かびませんでした。折角、高いお金を費やして50Hz電源を借りてきてここまで来たのに。万事窮すか?

またしても、スタッフ一同、へたり込んでしまいました。責任者の人も、妙案が浮かばない為、困り果てた顔をしています。

そして、“ともかく何か食べよう”“腹が減っては知恵も浮かばない”と、みんなで車にのり、近くのマクドナルドに行きました。スタッフの一人は、“ビッグディナーがマックに化けた”と冗談を言い、ビッグマックをほおばっています。私は、食欲だけは別物らしくハンバーガーを2~3個食べたでしょうか?更にフライドチキンやら、ポテトやらをコーヒーとともに流し込みました。責任者のおっさんは、”お前がその食欲なら、食べ終わったら、きっと良い知恵が浮かぶよ“と変な慰めをもらいました。”そういえば今日は煙草吸ってないなあ“と思い、”ちょっと煙草を吸ってきます”と外に出ました。当時アメリカは既に禁煙ブームで、いたるところに禁煙マークがありました。現地スタッフにも喫煙者はいないらしく、それで私も遠慮していたのです。ところが、責任者のおっさん、のこのこと一緒に外に出て、私と一緒に煙草をすいだしました。あとで聞いたところ、彼も一日にマルボロを2箱も吸うヘビースモーカで、さっき電源を借りに行くときも砂漠の真ん中でたっぷりすってきたそうです。“私がスモーカとは知らなかったので、もし知っていたら、一緒に行けばよかった”などと行ってくれました。 一時間ほど休憩して展示会場に戻りました。

静電気の問題は、しかし対策方法が見つかりません。 責任者の方が、“よし、今日は終了”、“展示会は13時からだが、再度朝9時から、設定のやり直しをする。”と宣言し、今日(もう深夜午前2時を回っていましたので、今日ではないかも)は解散することになりました。
責任者のおっさんは、“明日、展示では機械の動作はせず、説明だけで進める。展示会の時間はホテルに行って、商談会で使う機械の準備をしてくれ”とのことでした。結局、展示会には間に合わない、十分な完成品を販売会社の人に提供することが出来なかった、もっといろいろ準備すべきだった、いろいろな環境を想定すべきだったなど、後悔ばかりが頭をよぎり眠れない夜でした。一方で、ホテルの機械も気になっていましたので、朝展示会場で展示品の確認をしたら、ホテルに行って、もう一台の機械の設定をすることにしました。

朝、集合は8時半、でも、眠れない夜を過ごした私は7時半には朝食を済ませ、8時前にはロビーで皆が集まるのを待っていました。このとき、実は私の頭はどちらかと言うと、すっきりしていました。もう日本を出るときに想定していた状況を実現することは不可能なのだから、今の状況下で最善を尽くそう、と。

3台か4台かの車に分乗して、現地スタッフとともに展示会場に向かいました。まだ、ナレーターの女性だけが来ていません。彼女は12時に来て、ナレーションの準備に入ることになっています。展示用の機械のテストを開始しました。案の定、一枚目のコピーは上手くいきますが、原稿の自動入れ替えが上手くいきません。昨夜の話の通り、私は展示会での調整を打ち切り、何人かの現地スタッフの方と、ホテルの商談会場に移動することになりました。ついに静電気対策はできなかった。日本に状況を報告することなどもすっかり忘れてしまっていました。電源周波数問題。何とか解決したと思ったら静電気問題。立て続けに発生する難問に冷静さを失っていたのかもしれません。

工具を片付け、展示会場を出ようとしたとき、意外なところから静電気対策が見つかりました。

今回でこのシリーズ終わらせようと思ったけど、終わらなかった。書いているうちに、あ、あんなことがあった、こんなこともあった、といろいろ思い出して、まとめるのに再三書き直したり、追記したりで結構手間がかかってしまいました。
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by wata1150 | 2006-09-05 12:45 | TADAの海外体験談
前回の続きです。

私が展示会場の展示機と格闘していると、そこに、責任者があらわれ、“もし、展示会が上手く行かなかったら、殺すぞ(kill you)!”と英語で脅かしてきます。(kill youという表現はこのとき覚えました。以降いろいろなsituationで私はこの言葉を何回となく使ってきました。) 赤ら顔が真剣に怒っています。その部下と思しき人が、“あいつは本気で怒ったら、何をするかわからないぞ”と私の恐怖心を更にあおります。 ま、殺されはしないでしょうが、それだけ、彼らは必死になってこのピンチを乗り切ろうとしているんだ、と言うことは伝わってきます。しかし、彼らは技術屋ではありませんから、解決策などもちろん考えることは出来ません。そこにいるメンバーの中では唯一私だけが頼りなのです。

私は“50Hz電源があれば良いのだが・・・”とつぶやきました。何気なく、本当に誰に言うともなく、つぶやいたのだと思います。後で聞くと、責任者の男は、いったいあれは誰に言ったのだ?と食事のときかなんかに聞いてきましたから。そして私は誰ともなくつぶやいたのだと思う、と答えたのだと思います。

ともかく、それを聞いていた責任者、やおら、“わかった、50Hz電源があれば良いのだな?”と2,3度繰り返し確認し、私が頷きながら“多分・・・・(Maybe!)”と答えたのだと思います。100%の自信はありませんでしたから。彼は、2~3時間待ってくれ、と言ってそばにいたスタッフの一人を連れて、どこかに消えました。60Hz電源の地域で、しかもギャンブルとショーの町で、50Hz電源なぞ、あるはずがありません。(実際、無かったのです。) 彼はどうするつもりなのかな?発電所と交渉して急遽50Hz送電をするよう頼むのかな?それは無理だ。かれは何をしようとしていたのか、全く想像が出来ませんでした。

時間はもう夕方です。他社の展示準備はおおよそ終了し、日本から来た出張者を含め、ほとんどの方が既にホテルに引き返し、わずかに残っている人たちも、展示品にカバーをかけ、引き上げ準備をしています。一部の展示コーナーではナレーションをする若くてきれいなお姉さん達が、リハーサルをやっていました。我々の展示ブースでも、小柄な、しかしなかなかかわいいナレーターが、心配そうにことの成り行きを見守っていました。

ちょっと脱線しますが、このお嬢さん、日本人並に小柄で、綺麗なロングの黒髪が光っていて、プロポーションもよく、なんと言っても非常にかわいい人でした。今ほど“セクハラ”などと言うことが騒がれませんでしたから、スタッフの連中は、私が作業をしている間、このお嬢さんを取り囲み、一緒に写真をとったり、コーラをサービスしたり、おしゃべりをしたりしていました。私は言葉が出来ませんので、一人作業をやっていましたが。声も透き通っていて、この人がナレーションをすると、まるで歌っているように聞こえました。 事実、展示会の開催時、彼女がナレーションを始めると展示品の前に多くの観客が集まってきました。私はこの女性とは一度だけ、展示会場で見学者がいなくなったときに展示品を横にして写真を取り、朝、プールで一緒に泳ぎました。いまでも、この写真は、前の会社時代の写真をファイルしたアルバムのどこかにあるはずです。

本題に戻りますが、私と数名のアメリカ人のスタッフだけは疲労感を漂わせながら、展示品の横に座り込み、途方にくれていました。展示会場はカジノやホテルがある地域からは少しはなれたところにあり、回りは砂漠です。空気だけは、やけに乾燥していて、静電気が直ぐに発生し、うかつに金属部分には触れません。ただ、冷房はやけに効きすぎて、長袖の作業服を着ていました。アメリカ人スタッフの話では、展示品のセットアップが終わったら、ホテルのレストランで私の歓迎会をする予定だったが、それどころではない、歓迎会は中止、と、さびしそうにいいます。申し訳ない気持ちやら、どうして、日本にいる間に電源周波数を確認しなかったのか、と悔やみ続けました。外はもうすっかり暗くなり、遠くのホテルがある方向の空がやけに明るく見え出しました。

現地スタッフの責任者の人は“2時間・・・”と言って出かけましたが4時間ぐらいは過ぎていたでしょうか。夜、9時頃だったとおもいます。アメリカ人スタッフの責任者が息を切らせて戻ってきました。厳しい顔をしています。無言で、ただ一言“ちょっと外に出ろ“。 みんなで展示場の外に出てみると、そこには馬鹿でかいトレーラが止まっており、その上には馬鹿でかい、真っ黒で四角の塊が載っていました。ディーゼル発電機と燃料タンクが載っていたのです。“50Hz電源を持ってきた。動かしてみてくれ!”といいます。

アメリカ人スタッフの責任者の人は、どこからかこの発電機を展示期間一週間の間借用してきたのです。後で聞いてみると、このラスベガスの周辺にはラスベガスと言う町を維持管理修理する為、またラスベガスに勤務する人たちが住んでいる衛星都市がいくつかあり、新しいホテルを建設したり、ビル修理をしたりするときに使用したり、停電事故が発生したときに緊急に電力を確保する為に、衛星都市には大概このようなディーゼル発電機が置いてあるのだそうです。ただ、ほとんどはやはり60Hz仕様で、50Hzと切替えられるものは結果的にはこれ一台だったそうですが。一日500ドルくらいだったと思います。計3500ドル。当時1ドルは200円くらいだったと思いますので、計70万円くらいでしょうか。“さーすが、アメリカ人、やることが違う!”と感心しました。ただごっついだけではないな、と妙に感心したのを覚えています。体は大きいし、腕も足も太くてたくましい、でも結構器用で、機転が利く人たちでした。

展示場の外にトレーラーを止め広い展示会場の屋根裏に電線を這わせます。展示場の屋根裏には照明機器がたくさんぶら下がっていますから、それに電線を巻きつけながら、屋根裏に電線を這わすのです。リーダーが“電線足りないかな?”など、不安なことを言います。でも、100メートル以上電線を這わせ、どうにか展示品の真上から電線をたらし、展示品に接続しました。2時間以上は作業したのではないかと思います。

エンジンを始動し、電圧、周波数を合わせました。テスト再開です。


今回はここまで。
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by wata1150 | 2006-09-04 01:18 | TADAの海外体験談
私は、別のブログサイトで少しずつ、私の過去の経験談を書こうと思い、気まぐれに投稿してきました。日本滞在記も少し飽きてきたので、そちらから転記して紹介していきたいと思います。実話であり、固有名詞もあったりするので、迷惑される方があるも知れませんが、時効だと思い、お許し下さい。また、別のサイトで、既に読んでしまっている方には、新鮮味がなくなっていることと思います。重ねてごめんなさい。

初めて海外業務出張したのは、もう何年前かは忘れましたが、30歳を若干越した頃ではなかったかと思います。行く先はギャンブルとショーで有名なアメリカはラスベガス。パスポートは持っていました。数年前に結婚し、新婚旅行でグアムに行ったからです。でも、アメリカ本土は生まれて初めての体験でした。

当時、私は普通紙複写機の開発リーダーをしていました。ラスベガスでNOMDAという事務機器関連の大きな展示会が行われ、あわせて商談会が行われるので、私はその製品の説明員、及び商談会のアテンドが目的で出張したのでした。

当時はラスベガス直行便などありません。サンフランシスコに飛び、国内線に乗り継いでラスベガスに行くのです。乗った飛行機はパンナムの001便、世界一周便でニューヨークからヨーロッパ、中東シンガポールを経て東京からサンフランシスコを経由しニューヨークに戻る物でした。帰国するのは002便の予定で、丁度001便とは反対向きに世界一周します。

ラスベガスは砂漠の中のオアシスみたいなところです。季節は多分夏だったと思います。気温は40度以上、ただし湿度は5%-10%以下。木陰に入ると結構涼しかったことを覚えています。また、夜には結構気温が下がり、外を出歩いくと丁度良い散歩になりました。
私は全くの単独出張でしたから、誰もサポートには来ません。サンフランシスコに着いたのは現地時間で正午頃、そして、アメリカの国内線に乗り換えラスベガス空港に着いたときはもう夜でした。空港は、ラスベガスの市内からはやや離れており、市内各ホテルを順番に巡って行くバスに乗って私のために現地会社が予約してくれた目的のホテルにチェックインしました。
今考えると、英語もほとんどできない私が一人でよく行ったものだと、感心してしまいます。若さゆえに出来たことだったと思います。

展示会場は大きなドーム型の国際展示場です。ここに世界中の事務機器メーカーが自慢の最新鋭事務機器を展示し、商談を行います。私は現地スタッフとはこの展示場の当社ブースの前で待ち合わせと言うことにしていました。ホテルに宿泊し、翌朝、この展示会場にタクシーで向かいました。

展示会に出品する製品は日本を出る前に現地の販売会社宛に発送しておきました。ラスベガスに到着しての最初の仕事は展示会場と、商談会場のホテルの一室でのシステムのセットアップです。私が担当したのはオートフィーダーという原稿の自動送り装置。早速セットしてテストです。原稿をいれ、スイッチをオン。すると原稿は全てオーバーランして飛び出して行き、コピーの原稿台の位置に止まりません。何度やっても同じこと。あれ?変だな?日本でテストしたときは完璧でした。何でだろうか?何で紙が飛び出してしまうのだろうか?本当に悩みました。部品の問題ではなし。回路基板も入れ替えてみました。でも、ダメ。 

アメリカの販社のスタッフは今回持ってきた製品に期待を寄せ、業界では新参で弱小だった当社を何とか有力メーカにし、販社経営の柱にしようと張り切っています。どうしても上手く行かないことが担当者に知れると、どこからか責任者が現れ、一緒にテストを繰り返します。が、どうしても、何度やってもダメ。ついにスタッフの何人かは怒り出してしまいました。身長180センチ以上、体重は100キロ以上はありそうな、赤ら顔のスタッフは赤鬼みたいな顔をして見守っています。こっちははじめての海外出張、しかも英語も満足に使えず、日本人は私だけ、コミュニケーションも思うに任せません。全くの四面楚歌の状態です。

で、は!っと思いついたのが電源周波数。製品は交流モータを使い、ギアボックスで減速していました。モータの回転数は電源周波数に依存します。50Hz仕様で作った製品を60Hzで使用すると、回転数がUPしてしまうのです。 ラスベガスの電源周波数を聞いてみると果たして“60Hz”。わかった!!!思わず叫びました。スタッフが駆けつけてきます。なんだ?どうした?治ったか?口々に叫びます。で、商用電源周波数が日本での調整と異なっていることをつたないブロークン英語で説明しました。皆はふんふん、うなずきながら聞いています。で、“どうすれば治るんだ?ラスベガスの商用周波数を50Hzに変える事など出来ません。”展示中止“”動作紹介中止“”商談中止“などが頭の中をよぎります。日本から60Hz用のモータを取り寄せて入れ替えることも考えましたが、時間が足りません。一応、日本側に60Hzモータを至急手配し、送ってくれるようにFAXで依頼しました。

作業中止、30分休憩。展示会場の片隅で、私はしゃがみこみ、コーラを飲みながら、もっぱら展示会で、どう対応するかだけを考えていました。観客やユーザに、故障と説明?電源は入れずにモックアップと説明?あれこれと逃げ口上だけが浮かんできます。最後には“俺は何でアメリカまで来たんだ?”と自問自答しました。

とりあえず、第一回はここまで。
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by wata1150 | 2006-09-02 20:31 | TADAの海外体験談
現在行っている就職活動を少し述べてみたい。
私の気持ち、意思の整理でもある。

失業中の現在、生活リズムは完全に妻の生活リズムに合わせられている。これは仕方が無い。なんと言っても食べさせてもらっている状況なのであるから。したがって、何とか早期に就職し、家にお金を送ることが出来る状態に戻さなければならないという切実な願いがある。

昨年の2月、それまで30数年勤務した会社を辞めた。このときは退職金がたんまりあったから、さほど切実感は無かった。そのうちどこかに就職できるであろう、くらいに安易に考えていた。毎日横浜のワンルームマンションの一室で、E-Mailをチェックし、ハローワークに出向き、人材紹介会社に相談に行き、数社の人材紹介会社に登録し、毎日各社を回ってお願いし、求人情報を待っていた。

3ヶ月をブラブラ過ごし、5月に就職が内定した。勤務は7月1日からということで、6月には妻と新婚旅行以来の、二人だけでの海外旅行にも出かけた。そして、7月から新しい勤務先に出勤した。この4ヶ月は私にとっては、命の洗濯といえる時期だったかもしれない。

今回は6月末で退職した。が、退職金もないし、給料も高いわけではなかったから、生活にも余裕もなかった。したがって、一年前とは全く違った心理状況、生活環境で過ごさなければならない。前の会社の退職金は年金に回したので、すぐに使えるお金としては存在しない。いきおい、妻のささやかな収入に頼らざるを得ない状況である。

退職後、日本に帰り、上海に居たときに面接を予約したある会社の面接を行った。先日「今回のことは縁が無かったということで・・・」という電話の一言で、駄目になった。

同じく上海で登録した上海の日系の人材紹介会社が3社ある。A社、B社、C社としよう。A社は現在具体的な求人情報をもたらしていない。その代わり、「我社だけでは心配なので・・・」とC社を紹介され、登録したのである。A社は私の知人がやっている会社なので、気持ちの上ではA社でまとめて欲しかったが、仕方が無い。

B社は私が上海の会社に就職したときにお世話になった会社で、日本でも比較的大手である。
2件ほど紹介を受け、そのうち1社は年齢的な問題がネックになって、書類審査で駄目になった。もう一件は、現在B社の副総経理が追いかけてくれている。この副総経理はまだ30歳代の独身女性で、上海の語学留学を終えた頃にB社の幹部と偶然出会い、入社した経歴を持つ。
中国語はかなり達者にこなす、いわばキャリアウーマンである。B社幹部に見込まれただけになかなか迫力があり、並み居る男性に勝るとも劣らない仕事振りで、女性にしてはしっかりした人である。

C社はA社の社長から紹介された、上海の日系人材紹介会社では大手である。上海には約200社くらいの日系人材紹介会社があるそうで、それだけ日本人の需要や、求職者が多いということなのであろう。C社の蘇州事務所から2件の紹介があった。1社は職種のミスマッチの感じがあって、私がお断りをした。現在、もう一件の案件を追いかけてもらっている。蘇州の担当者も女性で、直接お会いしたことは無いが、なかなかのしっかりものの感じである。

一方、日本に帰国後、6社ほどの人材紹介会社に登録した。一社は昨年私がお世話になったD社である。担当してくれたN氏に電話し、適当な会社を探してくれることになった。

また、WEB-SITEに人材紹介を扱う”EN"というサイトがある。ここでは直接求人情報を取り扱うほか、高齢者対応、ハイクラス求人などとあわせて、人材紹介会社を紹介するサイトもある。
ここで、リストや各社の内容を見て、登録できるようになっている。私は、この中から5社を選び登録した。うち2社は、現在は適当な仕事が無い旨を伝えてきたが、1社は私の履歴書や職歴書を要求し、最近それらを提出した。他の2社は現在、音なしである。

さらに、私が上海に居たときにお世話になったG社のM総経理にメールし、適当な会社を紹介してくれるよう依頼した。彼は上海歴14年のベテランで、かなりの情報通である。彼は早速数社の知己の会社に当たり、そのうちの一社を紹介してくれた。今週末にも面接までこぎつけるかもしれない。

こうしてみると、結構いろいろな方向で求職情報を探し、申し込んでいる。が、なかなか就職には結びつきにくい。原因はいろいろあろうが、整理してみると、(1)職種のミスマッチ、(2)給料レベルの差、(3)年齢的なミスマッチなどが主である。

求人側でも、人材は必要、だが、人材に何を求めるのかを十分に検討しないままに、求人票を人材会社に提出する事例もあった。仕事の内容を採用する人材のアイデアに期待するというパターンである。無論、詳細については採用された人材が経験や、仕事の目的により自分のアイデアを加えて行うことは当たり前であるが、全体の方向まで期待してしまうケースもあった。求人、求職とは結構難しい作業を伴なうことを知った。

自分が、何が出来て、何が出来ないのか、どのような仕事には向いていて、どのような仕事には不向きなのか、そしてそのような仕事に対する報酬はどの程度が適当なのか、採用する側も、される側もある程度は事前に知っておくことが必要であると思った。
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by wata1150 | 2006-07-11 22:44 | 日本滞在記

オフィスの引越し

先週、オフィスの引越しをしました。

私たちの会社のオフィスは、昨年7月に私が赴任してから、上海の浦西側、古北路と仙霞路の交点のところにある大きなオフィスビルにあり、昨年12月までそのビルにあった、ある日系会社のオフィスの一角を間借りして使ってきました。しかし、その会社が12月末で会社を閉鎖することになり、追い出されてしまったのです。一時避難的に、浦東にある中国系の商社の一角を再度間借りすることになり、1月の始めにそこに引越しをしました。

このたび、浦東、地下鉄東昌路駅に程近い、張楊路のヤオハンの対面にある新築のオフィスビルに再度引越しをしました。このビルは東塔と西塔の二つの塔をもつツインタワーで、総ガラス張りの28階建てです。1階から7階までは商業施設が入り、それより上がオフィスビルになるのです。私たちが使う部屋は80平方メートル、当面は十分な広さです。それより、やっと間借り生活から脱却できることのうれしさは、やはりありました。

3月中旬に部屋のキーはもらったのですが、まだビル外装工事は終わっていなくて、結局一ヶ月近く遅れてしまいました。私個人としては、ビルが完全に出来上がり、他の会社も入居が始まってから、様子を見ながら入りたかったのですが、間借りさせてもらっている会社の都合もあり、結局入居第一号になってしまいました。入居一週間前に、電話回線とインターネット回線の室内配線を行い、更にテーブルタップを買い揃え、後は机やロッカーなどの什器を持ち込むばかりにしておきました。

引越しはいとも簡単、従業員も少なく、什器備品も最小限度の会社ですから、さほどのことはなく、4トントラック一台に机やロッカーを積み、書類やコンピューターをタクシーで往復して、半日で引越しは終わってしまいました。心配していたインターネット接続や電話接続も、取り立てて問題もなく、午後には使えるようになりました。

あとは、会議机や、間仕切りなどが残っていますが、徐々にオフィスとしての体裁が整ってくることだろうと思います。

今度は、毎月の家賃も今まで以上にかかるので、仕事もしっかり行い、稼がなければいけません。しかし、真新しいオフィスと言う物は気持ちのよいことです。心機一転、ファイトー!
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by wata1150 | 2006-04-23 19:08 | 日記