中国で単身生活をすることになったTADAの日々の感じた事を気ままに書いてます。


by wata1150
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28

<   2007年 02月 ( 9 )   > この月の画像一覧

やられちゃった。

春節明け早々、やられてしまいました。

昨日、香港で上水駅でバスから電車に乗り換えようと、KCR上水駅構内を歩き、喉の渇きを癒すため、お茶を買おうと売店に居た時のことだと思います。結構込んではいたのですが、どこか警戒感が薄れていたのでしょうね。香港にいると言う安心感も有ったのでしょう。やられてしまいました。肩にかけていた、布製の書類カバンの中に入れておいたはずの財布、見事に盗られました。バックのファスナーが空いているのに気がつき、中を確認したのですが、財布だけしっかりやられました。とは言っても、この財布、普段は日本円しか入れておかず、この日は現金はゼロ、レシートの控えや、カード類等しか入っていませんでしたから。ま、盗った人は中を見てがっくりしたでしょうが。

盗られたのは、銀行のキャッシュカード3枚、クレジットカード4枚、車の免許証、健康保険証、それにビッグカメラなどのポイントカードなどです。銀行には電話で連絡し、カードをとめてもらい、クレジット会社にも電話して、止めてもらいましたので、金額として現れる実害はありませんでした。更に、家族に依頼して日本の警察に免許証の紛失届けを提出しました。さらに、健康保険賞などの不正使用を防ぐため、明日は個人信用データ会社などにも連絡しなければなりません。面倒くさいこと、この上無しの感じです。

がっくりしながら羅湖経由恵州に戻り、恵州のバスターミナルでバスを降り、会社に電話しようとポケットを探ると、無い!!!携帯電話が一個ないのです。普段私はAUのグローバル携帯と中国のGSMを持ち歩いているのですが、そのグローバル携帯が無いのです。落としたかと思いバスに戻ると、バスは内部清掃中でした。で、掃除をしていたおばさんに聞いてみると、誰かが、貴方のポケットから携帯を盗んで、逃げてゆくのを見たよ、と言うのです。なんと、このおばさん、見ていて、声の一つも上げなかったのです。多分、他にも見ていた人がいたのでしょうが、誰も声を上げなかったようです。

中国で、バスの中で4人の泥棒が一人の乗客の財布を盗もうとしたところを他の乗客に見つかり、声を出したことがあったそうです。その時、その乗客は4人の中に一人に刺し殺されてしまったそうです。そんな経験から、窃盗犯罪くらいでは見て見ぬ振りをする場合が殆どになってしまったと言うことをあとで会社の同僚に聞きました。財布を盗られて、がっくりし、更に集中力をなくしていたことが、泥棒に対しての隙を作ってしまったのでしょうが。

携帯電話の機械そのものはそれ程惜しくはありませんが、中にあった電話番号簿やデータ、写真などがなくなったのが痛い。200件以上の連絡先や電話番号簿は、リカバリーできませんから。

一日のうちに2回もスリに会うなどと言うことは、めったにあるものではありませんが、いい勉強をしたと思うしかないのでしょうね。

春節の前、私の通訳兼秘書のTさんは家においておいた現金1400元を盗まれました。彼女の一か月分の給料でした。また、日本語のわかる営業のT君は、夜中に寝ている間に8階の自室に泥棒が入り、4000元を盗まれました。

わたしも、以前セカンドバックに入れておいた10000元をやられたことがあります。会社の同僚諸君に聞いてみると、大概一回や2回、経験があるそうです。悲しいけれども、それが中国の現実なのです。

このような犯罪が多い背景をC君と考えてみました。
1.貧富の差が激しすぎる。貧乏な人は本当に貧乏。今日の食事さえままならない。女性は自分の体を売ってでも、生きて行かなければならない。
2.こういった犯罪に対する処罰が軽い。わずかの罰金を払うか、刑務所に入っても短期間で出所できる。
3.検挙率が低い。警察の能力が低いとは思えないが、あまり、検挙率は高くは無いのが実情のようです。
4.特に春節前後は帰省する為に、お金が必要だが、仕事にありつけず、帰省費用を捻出する為に、窃盗に走る。

ともかく、当分は不自由な生活を強いられそうですが、殺されたり、傷つけられたりしたのではないことを、幸運と考え、諦めることにしました。しかし、く・や・しーーーーい!!!!!
[PR]
by wata1150 | 2007-02-27 21:50 | 日記
前回に続いて、受けた親切をもう一つ。

私は、福岡発の全日空機で名古屋に向かうつもりなのだが、中部名古屋空港は、愛知万博に間に合わせて開港した新しい空港で、私にとっては初の空港である。夜8時過ぎに着く予定のため、宿泊予定の名古屋駅前まで、どうやって行けばよいのかわからない。

チェックインの時に、ANAの職員に聞いてみた。「名古屋空港からJR名古屋駅まで行くにはどうやってゆけばいいのですか?どのくらいの時間が掛かりますか?」すると、このANAの女性職員は、しばらくのあいだ手元にあった、パンフレットやチラシをあれこれ見ていたが、やがて「少しお待ちください」と、言い残してカウンターのおくにある事務所に消えた。誰かに聞いてみるためらしかった。私は、「判らなくても仕方が無い。名古屋についたら、また誰かに聞けば良い。」と思っていたので、一生懸命に調べてくれている職員さんには気の毒に思ったほどだったのだが。

やがて、彼女は戻ってきて、「いまはちょっとわかりません。でも、後ほど、ゲートのところで教えますから、時間になったら、ゲートのところでお待ちください。」と言ってくれた。私は、「ありがとう、宜しくお願いします。」と言って、その場を去った。食事を取ったり、お土産品の店を覗いたりして時間をすごした。一時間ほどたってから、私はセキュリティチェックをし、ゲートに向った。煙草を吸い、再度お土産やさんを冷かし、やがてゲートの前のベンチで文庫本を広げて読み出した。
  
多分、搭乗開始のアナウンスの前だったと思う。「名古屋へご出発の〇〇さん、搭乗改札口までお越しください」というアナウンスが聞こえた。ゲートの前まで行って見ると、先程の女性職員が待っていた。名古屋空港からJR名古屋駅までの行程を調べました。と言って、ビニールファイルの中にある、プリンターでプリントされた紙をとりだした。
「名古屋駅に行くには、バスで行く方法と、電車で行く方法がございます。この時間ですと、バスは21時・・分、電車ですと、名鉄の特急列車があり、名古屋駅まで・・分かかります。」そして、近くにあったベンチに私を誘導し、座らせ、紙に印刷された資料を見せてくれながら、親切丁寧に、わかりやすく簡潔に説明してくれた。

「なるほど、空港を出ると名鉄電車の駅に渡り廊下で直結しているのか。名鉄電車はすぐに切符売り場は手前にあるのでわかりやすいのか。なるほど、なるほど。」私の頭の中に名古屋空港を降りてからの行程がイメージできるほどの見事な説明だった。

多分、簡単な資料は、カウンターで見つかったのかもしれない。が、私が年寄りに見えたせいなのかもしれないが、どのように説明したらわかりやすいのかを、彼女は考えたのかもしれない。そして、どのくらい時間を要したのかはわからないが、わかりやすい資料を作って、説明してくれた。とてもありがたかったし、嬉しかった。そして、こんな気配りの出来るセールスマンがいたら、どれだけの戦力になるのか、我社に来てくれないかな、など、少々不届きなことも思ったくらいである。

彼女は、単に仕事の一環として処理しただけなのかもしれない。それでも、少なくとも最近良く出くわす、機械的な対応ではなかった。血の通った人間としての対応だった。こんな人が多くなれば、世の中ももっと住みやすくなるに違いない。
[PR]
by wata1150 | 2007-02-21 10:52 | 日本滞在記
弟が死んで、49日を迎えた。

弟が死んだのは1月3日の朝。正式な葬式は、正月が終わる1月15日が過ぎてからと言うことで、1月17日に行うことになっていた。私は1月6日の火葬には参加したものの、仕事があるため1月10日に中国にもどった。そのため、通夜とか葬儀には参列できなかった。今日、49日と言うことで、線香を上げに、実家に行った。弟のことを心の中で思うことで、葬儀に参列しなかったことを埋め合わせることにした。

この文章は、ブログに載せるかどうかで、実は相当に迷った。ブログタイトルにも合わないし、あまりにも私的で、かつ公にするには多少はばかられる内容でもある。しかし、葬儀に参加しなかったことによる、心の区切りがつかないことを、この文章をブログに載せること、つまり公にしてしまうことで吹っ切ることにしたいと考えた。「葬式という儀式は、死んだ本人の為ではなく、生き残った人のためにすることである」という言葉を聴いて、まさにその通りだと思ったことにもよる。私は、折に触れて、亡くなった弟の思い出のことを、何度かに分けて書いてゆこうと決めた。

私は、大学をでて、大阪の会社に就職することになった。弟は言った。「兄貴、おれはこの家に残って親父とお袋の面倒を見る。2度とこの家に、帰って来るな。」私は、口下手な彼の私に対する精一杯の激励としてこの言葉を受け取っていた。かれは私より2歳年下だから、彼はせいぜい20歳のころだった。「辛くても、寂しくても、逃げてこの家に戻ってきてはいけない。自分でしっかり生活基盤を築き、家庭を持ち生きてゆけ。」ということだったのだと思う。「親父のことも、おふくろのことも任せておけ。私が長男だからということで、家のことを足かせにしなくともいいよ。」そういうことだったのだと思う。もっとも私は、最終的に彼の住んでいる家(私の生家)から車で一時間ほどの所に家を買い、家族と共に移り住んだのだったが。

弟は生涯独身だった。何度か結婚話は有ったのだが、結果として結婚することはなかった。そして、両親と一緒に住み、父親が亡くなった後は母親と一緒に住んだ。妹が会社を辞めてからは、妹も一緒に住んでいた。妹は言う。「もし彼が結婚していて、家族がいたならば、こんなことにはならなかったかもしれない」と。彼にも何度か結婚話は有ったらしい。少なくともそのうちの一つは私も知っている。私が結婚する以前のことであった。相手は彼の同級生の女性だったと思う。私のところに電話をしてきた。「兄貴、早く結婚したら?」 私は不審におもって、聞いて見ると「結婚したい女性がいる。だが親父が反対している。“兄貴が先に結婚しなければ”ということだそうだ」と。「私は一笑に付して、“関係ない。どっちが先でもかまわないから、結婚したい人がいるなら、結婚したらいい。」そう答えた。結局彼は、その時結婚できなかった。

その後も、何度か結婚話が有ったらしい。が、“彼の奥さんは両親と一緒に住む”という前提が出来ていた為、彼や相手の方が良くても、私の親父やお袋が反対し、結局全て駄目になったらしい。彼は、自分の結婚に“両親とも同居”という付帯条件を付け、自分が気に入るだけでは駄目で、両親も気に入らなければいけない、というより厳しい条件にしてしまったため、結果的にその条件に見合う相手に遭遇することができず、結婚できなかったのだ。自分の家庭を作ることを犠牲にしてしまったともいえる。私はこの話を年老いた母親から聞いた。母親にはなんとも答えようが無かった。せめて、本人から聞いていたら、また別の感想も言えたかも・・・とは思ったが。

弟は、医者嫌いであった。風邪を引いてもせいぜい風薬程度ですませ、医者にかかることはなかった。また、普段は自分の体調をどうこう言うことはほとんどなかったという。今回、明け方に何度か起きてきたときにも、何かおかしいとは言わなかったらしい。同居していた家族が年老いた母親や、妹ではなく、妻や子供であったらどうだったであろうか。

私は、今は糖尿病という、だらしない生活をしたが故の、俗に言う生活習慣病に冒されている。私の上の息子は、クローン病という難病を持ちながら、大学生活を続けている。それでも、日頃の注意を十分に行い、定期的に病院に通っていれば、結構普通の生活は維持できる。それは家族の存在が大きいと思う。体調が悪ければ、家族に話せば、適当なアドバイスをくれる。医者に行く口実も出来やすい。弟には本当の意味での家族は無かったのかもしれない。年老いた母親や、妹では、愚痴をこぼすこともままならなかったし、体調の異常も告げにくかったのではないだろうかと思う。

お袋は“彼は今どこで何をし、私達をどんな風に見て、どのように思っているのか”という言い方で、彼を偲んでいるそうだ。「“百万億土”の彼方から、いつもしっかり見ているよ。」と誰かが言う。私も彼に“いつも見られている”ことを意識して、生きてゆかなければ・・・と思うのである。
[PR]
by wata1150 | 2007-02-20 23:16 | 雑感
久しぶりに、福岡空港に降り立った。M社時代でも、国内ユーザ対応していた時分のことだから多分十数年ぶりになるだろう。当時は福岡空港に降りてからタクシーで博多の町に行くしかなかった。ま、バスはあったのだろうが、面倒くさかった気もする。現在では、地下鉄が走り、わずかの時間で博多駅まで運んでくれる。

さて、博多空港で2つの「親切」に出合った。
早めに博多空港に戻り、フライトまでは十分に時間が有ったので、空港のロビー内を散策することにした。一軒のレザークラフトショップが通路の真ん中に出店を開いていた。おしゃれなカバンやバック、キーホルダーやストラップなど、結構感じの良いものが並んでいた。

ふと、文庫本のホルダーが目にとまり、手にとって見た。なかなか良い皮素材で、使い込むほどに手になじむような感じがする。黒、赤、茶などに染められたものもあったが、手に触った風合いがとてもよい。値段は?とみると、4千数百円という値札が貼ってある。値段も悪くは無いと思った。店の所に中年の少し痩せた感じのおばさんが、私が手にとって微笑みながら私を見ている。

が、私は既に、約20年も使った、皮の文庫本のカバーを持っており、愛用してきた。すっかり手になじみ、手放せない幹事のものである。ある方から、贈り物でもらったものでは有ったが、これだけ使うととても愛着がある。たまたま、その時も、そのカバーを持ってきていた。

私は、バックを開き、自分の文庫本カバーを取り出した。風合いを比べるためである。私のカバーは、皮ではあったが、手に入れて以来何の手入れもしなかったので、すっかり乾燥し、がさがさであった。すると、それを見ていたおばさんがやってきて、「使い込んだカバーですね。手入れを怠らなければ、まだまだ使えますよ。」といって、やおら私のカバーを取り上げると、カウンターの中にあったオイルを取り出し、私のカバーにゴシゴシと塗り始めた。なにか刷り込む感じである。

わずか数分後、私の20年も使い込んだブックカバーはしっとりとした風合いの、手触りの良いカバーに変身していた。私は綺麗に変身したカバーを受け取り、とても嬉しくなって、おばさんとおしゃべりをしてしまった。「オイルは、市販のものでよいから、一年に一度くらいは塗りこんでやると、皮が長持ちしますよ。大切に使ってください。」話しは私のブックカバーにまつわる話とか、果ては私がその時にしていたベルトの皮素材にまで及んだ。

彼女によると、夫婦で、共同で、完全な手作業で革製品を作っているのだと言う。時々、空港や町のデパートなどで展示販売をしているとか。皮素材が好きでたまらないと言う。皮工芸の話のときは、目がとても輝いて素敵なおばさんだった。

そして、結局何も買わなかったが、おばさんの笑顔と親切、そして皮に対する愛情が伝わってきて、とても豊かな気持ちになって、そこを去った。

もう一つの「親切」は、また次回に。
[PR]
by wata1150 | 2007-02-19 11:47 | 日本滞在記

パソコン故障

私が愛用している富士通のノートパソコンが調子が悪い。

電源を入れると画面全体が赤っぽい。しばらくすると画面がパカパカ点滅するような感じになる。コントラストを最低まで落とし、赤っぽいのを我慢して、何とか使っている。

私の見立てでは、どうもLCD(液晶)が駄目になった感じである。寿命なのか、故障なのか。

私が購入した時には十数万円もした代物であり、たった4年使っただけで駄目になるのでは面白くない。富士通に電話をした。サービスの人はそれでも丁寧に教えてくれた。やはり、液晶が駄目になったらしい。一般的には早いものは2~3年程度、長いものでは十年程度の寿命らしいが、何が寿命なのかはよくわからない。

彼が言うには液晶交換は、工場でしかできないという。宅急便で、工場に送り返し、約一週間程度で交換して、返送してくれると言う。料金は・・・なんと6万円弱。すぐ、交換してくださいとはいえズ、考えますといって電話を切ってしまった。

最近は新しいパソコンでも10万円以下で入手できるし、6万の修理代金は高すぎる。また、液晶のバックライトが4年で駄目になるのでは、ランニングコストが高すぎる。かといって、パソコン無しの日常は考えづらい。

安物のディスプレーを買って、外付けモニターとして使い、本体デスクトップパソコンとして使うなら、まだまだ使えるとおもう。そしてそのうち新しいノートPCを買おうと決めた。

最近は大型の液晶パネルやプラズマディスプレーを使ったテレビが急速に普及しつつある。これが4~5年で駄目になることを想像する人がどれだけいるのだろうか。同じ液晶なのであるから、寿命や性能はさほど違わないはずだが。

メーカーの保障期間はともかく、ブラウン管TVだったら、10年ぐらいは十分に使えることは経験上理解している。が、液晶パネルはまだ技術的歴史は、ブラウン管に比べて浅く、市場実績も乏しい。購入当初は、大きくて、明るくて、綺麗で薄型でなど、長所ばかりが目立つが、寿命などの信頼性はこれからであろう。

我が家は、まだブラウン管TVを使っている。大型の液晶かプラズマのTVを買いたい気持ちはあり、家族の中で話題にもなるが、今回のパソコンの故障で、液晶TVを買うのは多少遅くなりそうだ。
[PR]
by wata1150 | 2007-02-12 12:23 | 雑感

無錫 太湖 PART-2

やっと鹿頂山の頂上にたどり着きました。この三重塔はその名前を「鹿頂迎暉」と言い、1986年に建立されたものらしく、その「建設記」なるものが碑文として、書かれていました。一生懸命読もうと努力したのですが、結局読むことはできず、写真に残して、将来私が少しでも中国語ができるようになった時に読むことにしました。
e0026744_19573122.jpg

「鹿頂迎暉」に入るのは無料で、管理人もいませんでした。早速中に入ってみることにしました。中はやはり「お堂」のような造りになっており、お堂を支える4本の柱のうちの2本には、それぞれ文字が書いてありました。
e0026744_1958492.jpg

e0026744_19581947.jpg

読めないのが、妙に悔しいのですが、仕方がありません。

「鹿頂迎暉」の最上階からは、歌に詠まれたとおり“太湖”が一望できます。私が行った時間は夕方4時を過ぎていましたので、太陽が低く、また湖面には、もやが漂っていて、太湖の全景をカメラに収めることは出来ませんでした。が、太湖仙島は何とか見ることが出来、その中にある、太湖三山道院の塔も目にすることが出来ました。むしろ、この時間であったため、かえって風景が幻想的になり、よりすばらしい印象に見えたような気がします。
e0026744_19592087.jpg


「鹿頂迎暉」の反対側には、太湖の一部の向こう側に無錫市内が望めます。こうしてみると、無錫という街が結構大きい都会で、平坦な街であることがわかります。
e0026744_19594787.jpg


さて、鹿頂山から再び下りてきて、やはり、その景観がすばらしいとされる「亀渚春涛」という方角に進みます。途中で「中日櫻花友誼林」と書かれた石の記念碑が目にとまり、タクシーをおりて、見てみました。櫻の苗木が数十本植えられており、つぼみが膨らんでいました。
e0026744_200673.jpg


「亀渚春涛」に行くには、「亀頭渚」と書かれた、ゲートの前でタクシーをおり、歩いて向わなければなりません。車両通行禁止になっていて、指定の観光バスだけが入るのを許されているのです。
e0026744_2003836.jpg

湖畔に出ると、湖遊覧の船着場があり、そこに、歌の中にも出てくる“ジャンク”型の観光船が係留されていました。
e0026744_2005533.jpg


更に「亀渚春涛」に向って歩いて行くと、夕方の太陽がまさに太湖に沈んでゆく時間でした。杭州西湖の夕日は一度見て、とても綺麗な印象を持っていましたが、ここ太湖の夕日もなかなか綺麗で、しばらく立ち尽くして眺めていました。
e0026744_2011416.jpg


「ろくちょうさんから~~、たいこをのぞめば~~」 何時しか、この歌を口ずさんでいました。

また、ジャンクが係留されていた観光船乗り場脇には“歌碑”があり、意味はわからないのですが、「太湖春漲」という太湖を歌った歌であることだけがわかりました。
e0026744_2013493.jpg



「亀渚春涛」まで行きたかったのですが、日が暮れてしまい、残念ながら諦めました。何時になるかはわかりませんが、次回、無錫に来る機会があれば、是非「亀渚春涛」や「仙島」「三山道院」にも足を伸ばしてみたいと思いました。

最後に、お世話になった、タクシーの運転手さんに「無錫」という地名の由来を聞いてみました。彼は、どうしてそれを知ったのかはわかりませんが、無錫には「錫山」というところがあり、それは大昔、錫の取れる山として有名だったのだそうです。(現在でも無錫から蘇州に向う途中に錫山という地名があるのを偶然発見しました。)ところが、一山当てようと全国各地から人が集まり、また錫そのものの需要も多かったことから、すっかり掘り尽くしてしまったのだそうです。そこにあとから錫を堀に来た人たちが、もう錫はすっかり無くなった、ということで、一帯を「無錫」と言うようになったのだそうです。(ブログ友達の“花子mama”さんからも、同様の意味の解説を戴きましたので、多分これはあたっているような気がします。)
[PR]
by wata1150 | 2007-02-10 20:02 | 中国国内旅行・出張

無錫 太湖

5日から7日の三日間、駆け足で無錫、蘇州、昆山、上海と客先訪問をしてきました。年末の挨拶、引き合いの確認、価格調整など懸案課題を片付けることなどがその目的でした。しかし、私には別に楽しみにしていたことがあります。うまく時間調整をして、太湖に行くことでした。前回、無錫に行った時には、時間が無くて行けませんでしたので。

無錫、そして太湖は「無錫旅情」という歌ででてくる街です。上海から列車で、1時間半ほどのところにあります。

作詞・作曲  中山 大三郎 
1.君の知らない 異国の街で
 君を思えば 泣けてくる
 おれなど忘れて しあわせつかめと
 チャイナの旅路を 行くおれさ
 上海 蘇州と 汽車に乗り
 太湖のほとり 無錫の街へ

2.船にゆられて 運河をゆけば
 ばかな別れが くやしいよ
 あんなに愛した あんなに燃えてた
 いのちを賭けたら できたのに
 涙の横顔 ちらついて
 歴史の街も ぼやけて見える
3.昔ながらのジャンクが走る
 はるか小島は 三山か
 鹿頂山から 太湖を望めば
 心の中まで広くなる
 ごめんよ もう一度出直そう
 今度は君を離しはしない

今回は、3番の歌詞に出てくる「鹿頂山から 太湖を望めば・・・」ということで、鹿頂山なる山に登ってみることにしました。無錫駅の近くからタクシーにのり、“太湖”までは50元弱で着きます。鹿頂山は、太湖に突き出した半島の中にあり、多少遠回りしなければいけないので、結構時間は掛かってしまいましたが。
e0026744_027594.jpg

この地図で、左側の亀のような形をした島が、太湖でもっとも景観とされる島”太湖仙島”です。
この島の中に、無錫旅情の歌の中で「はるか小島は三山か・・・」と歌いこまれた”太湖三山道院”があります。今回は時間が夕方だったため、島に渡ることはできず、鹿頂山から眺めただけでしたが。

鹿頂山入り口には大きな岩に何か書いてあるのですが、こんな文字は読めませんでした。
e0026744_0534185.jpg

鹿頂山に登るには入り口で一人100元を払わなければいけません。中国の観光地で100元は高いのですが、折角来たのだから、と言うことで払って上ってみることにしました。鹿頂山は思ったより低い山で、入り口からタクシーで、10分ほどで登ることが出来ます。
e0026744_0282446.jpg

山頂には六角の三重の塔が立っており、遠くからでも、この三重の塔はすぐにわかります。山頂手前の駐車場にタクシーを止め、ドライバーに案内をお願いして、山頂まで進むことにしました。駐車場からすぐのところに小さなお堂がありました。
e0026744_0541828.jpg

お堂には、中国のお寺では良く見かける文字が書いてあります。このお堂には2つの言葉が書かれていました。右側には、多分「四季花開濤意趣」、左側には多分「人生相会有心縁」と読みました。(間違っているかもしれません。)正確に読み解くことは出来ませんが、意味はなんとなく伝わってくるようです。

駐車場から山頂まではほんのわずかでたどり着くことが出来ます。
e0026744_0544782.jpg


続きは、次回に投稿することにします。
[PR]
by wata1150 | 2007-02-08 23:55 | 中国国内旅行・出張
今日、上海から飛行機で深圳空港に降り立ってみると、なんと無茶苦茶暑く、飛行機のタラップを出ると、コンクリートに照り返された熱気が、ムンムンと押し寄せてきた。北京は16度とのことだったが、恵州は27度まで上がったとか。百数十年ぶりの記録的な暖冬だそうである。そして今日は冬から一気に夏に飛んだ感じである。

恵州の気候は、モンスーン気候というよりは亜熱帯気候なのであろう。冬はカラッと晴れてさほど寒さは感じない、なかなか快適である。気温も10度を下回ることはめったにない様子である。
但し、夏は経験したことはないが、蒸し暑く、気温も40度近傍まで上がることが多いそうである。

現実に、私が恵州に来てから二ヶ月あまり、雨は殆ど降らなかった。わずかにお湿り程度に降ったのが2~3回程度であった。そして、連日昼は晴れ上がった空を眺めて、風の心地よさを堪能し、夜はやはり空を見上げて、月の綺麗さや星の瞬きに感激していた。

昨年の冬は上海で過ごした。昨年の上海は寒かった。雪も一度、一面白くなる程度には降ったし、連日の風の冷たさには閉口した。工事中の道路の水溜りは、何度か凍りついたこともある。借りていたマンションの部屋の全ての暖房を最大限に強くし、電気料金の高さに驚きつつも、何とか一冬を過ごした。コートは長い羽毛の入ったコートを着て、体を丸めて歩いた。今年はいかなる冬なのか?昨日、上海に一泊したが、夜でも、結構暖かく、これが上海?と一瞬疑ってしまった。なんと言う変わりザマなのか。

ニュースでは、北米は記録的な冷夏で、相当な被害も出ているとか。世界的に異常気象のようである。この原因はやはり、人間が作り出した自然破壊なのであろうか。

いずれにせよ、恵州はこれから夏に向って進んでゆくのであろう。近在の人たちは既に半そでやノースリーブのシャツを着て出歩いていた。

明後日から、旧正月の休みに入る。私は明日夕方に深圳に移動し、明後日の午前便で一時帰国する。正月が夏の雰囲気では、なんとも雰囲気が出ないが、日本はそれなりには寒いのであろう。やはり、夏は暑く、冬は寒く、春には花が咲き、秋には紅葉が山を染める。そんな四季のある生活がいいと思う。
[PR]
by wata1150 | 2007-02-07 21:57 | 恵州の事

中国式忘年会

昨夜、会社のスタッフ忘年会があった。なんと、出席者総数300名。ホテルの2階のレストランを貸切にしての大宴会である。出席者は、来客数十名(多分30名位か)、香港の本社のスタッフ約十名、恵州工場のP総経理はじめスタッフ250名強、P董事長および奥様、お子様、奥様のお母上などのご家族などである。12人が一つの円卓に座る。その円卓が25個あるのである。まさに壮観。

2名の女性の司会で宴会は始まった。何故2名の女性かというと、一人は中国語の普通語、一人は広東語で話すためである。さすがは中国人、言語の違いなど、苦にもならないらしい。ちゃんと対応が自然にできている。

次は、総経理の挨拶。彼の本来の言語は広東語。でも、中国人、しかも中国各地から集まっている人を意識してか、普通語での挨拶であった。さすがは、中国人とまたまた感心した。彼の普通語は始めて聞いたのだが、皆、ちゃんと理解できているらしい。
続いて、宴会が始まった。私はなぜかNO.1テーブルの指定席。董事長、営業部長、私以外は全員お客様、しかも客先会社の社長、仕入先会社の社長、董事長と長年懇意にしていただいている恵州及び恵州近郊の会社の社長などがメンバーである。ビールから始まって・・・などという開始ではなかった。No.1テーブルの開始は、誰が持ち込んだのか、ヘネシーXO、マーテルXOなどの高級輸入ブランディーで始まった。しかもいきなりストレートである。一回り各社長方と乾杯をすると、もう既にヘロヘロ。メインの広東料理が出てくる前に出来上がってしまった。そこで、デジカメを取り出し、ずっと後方に居る営業部の女子社員のグループの円卓に退避。写真を撮って、歩き回って酔い覚まし。

しばらく、歩き回って、席に戻ると、メインディッシュが真ん中の回転台のうえにあふれるばかりにおいてあった。が、誰も手を出さず、席を入れ替わっては、グラスを持ち上げて、乾杯協奏曲の連続であった。これでは食べるどころではない。協奏曲に不協和音を供することにした。

我社の業務部経理に紹介されたのは、一人の私と同年輩か、若干年上と見受けられる日本人のおじさん。HさんというT社と言う香港系の会社の日本人オーナーであり、総経理でもある。現在は子会社を日本にもおいているという。18年も前に、香港人のオーナーからこの会社を買い取って、以来18年恵州に住んでいると言う。恵州に住んでいる日本人、約500人の中ではもっとも古い人の一人かもしれない。何せ周りが香港人と中国人なのであるから、うるさくて、落ち着いて話もできない。Hさんと、久しぶりの日本語で、大声で会話を始めた。すると、瞬間周りが会話を切って私たちの方を向く。広東語、中国語の喧騒の中で、やっぱり日本語は不協和音なのである。

このパーティには日本人は我々二人だけ。そこに来て、何せ私は日本語に飢えている。Hさんの会社も、日本人は彼だけだそうで、ほかは全て香港人と中国人だけ。そういった共通点を見出し、日本人と中国人の企業観の違いとか従業員資質とか、春節で故郷に帰った従業員が戻ってこないとか、いろいろな話をさせていただいた。そして、彼は日本から定期的に送ってくる週刊誌とか、本とかを私に回してくれるという。ありがたい申し出をいただき、感謝しつつお受けした。

他のテーブルも周り、挨拶をする。あるテーブルに行くと、面白いことを言ってくれた。このテーブルには現在6つの言語が話されています、と。ん?と思って聞いて見ると、日本語、英語、広東語、普通語、恵州語、そして客家語である。なるほど、私がそこに行くと、英語と日本語が増えるので、6種類の言語になるのである。恵州では、恵州語というローカルの言葉と、客家人が話す客家語が現在でも使われており、従業員の中に恵州出身の人がいると、恵州語になるのだという。

恒例らしい、抽選会が始まった。300名の参加者がいっせいにステージに注目する。今年の景品は従来よりも豪華なのだそうである。デジカメ、携帯電話、MP3プレーヤー、などがあるという。まず、私の所属する業務部の若手女子社員にMP3が当たった。嬉々として、彼女が受け取ってくる。現金500元、400元、300元、200元、100元という、景品もあった。同じく、業務部ではベテラン女子社員の一人が200元を当てた。業務経理が500元の番号を当てた。彼が、もらえるかと思いステージに行った途端、彼の番号が書かれた紙は抽選をしていた女子社員によって、ビリっと引き裂かれた。なんとマネージャー以上及び香港人は当たっても辞退すること、という暗黙のルールがあるらしい。つまり、若手社員に当ててもらおうと言う、会社の配慮である。その500元は再抽選で別部門の中国人にあたった。

お客様たちの接待も兼ねているため、抽選会の終了を待たずに、総経理、各経理はお客様を誘導して、中国式カラオケに向った。お客様は飲んで、どんなにヘベレケになっても許されるが、我々は、同じように飲んでも、酔いつぶれることはできない。カラオケに着けば、小姐を頼んだり、酒やフルーツの手配などいろいろと用がある。カラオケが始まれば、男芸者として、ヘタな歌を歌って、場を盛り上げ、お客さんに歌ってもらう呼び水とする。面白いゲームが有った。さいころゲームの一種なのだが、ポーカーのように頭脳的なギャンブルのようなものであった。負けるとグラスを空にしなければならない。負けるわけには行かないが、かといって勝ち続けると、お客さんが面白くない。一時間くらいはこのゲームに興じた。

12時過ぎに、お客さんも帰り始め、12時半でやっと散会。と、思いきや、考えてみると、酒は結構飲んだのだが、殆ど食べていない。総経理に誘われて、夜中までやっている四川料理に出かけた。麻辣火鍋の一番辛い奴を食べる。二口食うと、口の中に火が走る。更に食べると、唇周辺と、下の上の面がしびれて感覚が無くなる。頭から湯気が出る。
午前2時過ぎ、やっと食事を終えて会社の寮に引き上げてきた。

中国人の忘年会とは、いや凄まじいものである。来週は業務部の忘年会がある。どんなことになるやら。
[PR]
by wata1150 | 2007-02-03 20:07 | 恵州の事