中国で単身生活をすることになったTADAの日々の感じた事を気ままに書いてます。


by wata1150
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<   2006年 07月 ( 9 )   > この月の画像一覧

日本各地で大雨による被害という報道をよく見た。宮崎県や長野県など多くの県で被害が発生した。土砂崩れで、住宅が一瞬にして埋もれ、一家全員が行方不明または死亡などというものも有った。土石流で家や神社などが押し流され跡形もなくなった、などというものも有った。悲惨な物である。

私が大雨による被害を受けた経験は大分昔である。確か私が小学生かそれより以前であったように思う。台風による大雨で近所にあった小さな堀が氾濫した。水はたちまち家の前を走る国道6号線を飲み込み、我が家に流れ込んだ。あっという間に泥水は、家の縁の下に流れ込み、そして、水位はあがり、床下から畳に浸水した。いわゆる床上浸水である。我が家の一帯は山も無ければ、大きな川も無い平地であったため、その程度で済み、畳も乾燥して再使用できたし、家財は浸水の被害には至らなかった。ただ、床下や家の庭は10cmくらいの泥が堆積し、これをさらい、以前のようにするにはかなりに時間が必要で、疫病を発生させない為に町役場から何度か泥の上に消毒薬を散布に来ていた。

2週間ほどは、大要が顔をださず、小雨か曇天の日が続き、気温も日中でも20度あるいは20度以下の日が続いた。私はほとんどの衣類は上海に置きっぱなしなので、息子の長袖のシャツを借用して過ごしている。やっと一昨日昨日と太陽が顔を覗かせ、気温も25度くらいにはなったが、今日は元に戻って、寒い一日である。妻は寒い寒いを連発し、長袖のトレーナーを着込んで出かけていった。

九州などは梅雨明けし、暑い毎日が続いているとか。が、東北の梅雨明けは何時になるのか。まだしばらくは先になりそうな感じである。一方、ヨーロッパやアメリカでは熱暑が続き、熱射病で多数の死者が出ているとか。上海も、聞くところによると、昨年同様熱いそうである。

TVの報道では、この異常気象は偏西風が大きく蛇行している為に起こっているとか。我々人類がCO2を排出し、フロンを排出し、オゾンホールに穴を開けたのが遠因になっているのかも。

背中の帯状疱疹は収まってきているが、痛めた神経による神経痛は気温が下がると、痛みをまし、なんともたまらない。早く梅雨明けし、痛みが治まってくれないと、とてもたまらない。
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by wata1150 | 2006-07-28 20:53 | 日本滞在記
毎日寒い日が続きます。 仙台では日中の最高気温が20度を切る日もあります。天気予報では23日まで続くようです。

一週間前、異様に背中が痒く、娘に背中を掻かせました。左上半身が重苦しく特に肩甲骨周辺に痛みがありました。妻と息子に背中を見てもらうと虫刺されのような斑点があり、全体に赤くはれているとの事。数日様子を見ることにしました。ところが、日を追って痛みは激しくなり、背中だけではなく胸にも痛みが感じられ、また耳鳴りも感じられるようになって来ました。さらには、背中の腫れは大きくなり、痺れも出てきました。よほどの悪い虫に刺されたのか・・・とおもい、ひどくなり、立っていることさえ苦痛になってきました。

パソコンのキーボードを打ったり、マウスをクリックするにも苦痛を伴なうようになりました。妻に、話して皮膚科に行ってみることにしました。皮膚科に行ってみると、結構多くの患者さんが平日にもかかわらず詰めかけており、受付に聞くと1時間半から2時間待ちとの事。しかし、やっとの思いで車を運転してきて、ムダに帰って、もっと重くなってはいけないと、症状を話し、2時間待ちをすることにしました。10分くらい待ったでしょうか。あまりに苦痛に顔をしかめていたのがわかったのか、突然診察室に呼ばれ、ドクターに見せました。

一言「帯状疱疹」! 「え?それ、虫刺されじゃ無いってこと?何かの病気?」すると先生曰く「水疱瘡と同じウイルスにより引き起こされる発疹」とのこと。ドクターはそれだけ言うと、処方を看護婦さんに言い、私に「薬を出すから、飲んでください。抗ウイルス薬です。」といって、患者さんの待つ別の診察室に引き上げていきました。

近くの薬局に行き、処方箋に書かれた薬を購入しました。この薬が驚くほど高いのです。3日分、1日3回、一回2錠、計18錠で3600円、でした。保険が無ければ12000円、一錠200円です。しかし、体の苦痛には勝てず、お金を払って帰りました。

妻にその話をすると、彼女は「帯状疱疹」という病気を知っており、「雅子妃殿下がかかった。」とか、「近所のNさんもかかった」とか言い、「痛いらしいよ」とか、彼女の知識の範囲で教えてくれました。薬学部の息子も「神経が侵されて痛むので、痛み止めは無いよ、我慢するしかないね。」とか、数日で治まると思うから、我慢するしかないよ」と冷たく言い放ちます。神経痛の痛みと同じなので「温泉やお風呂に入ると痛みは緩和される」とか「今は連日寒いから、痛みはきついかも」と教えてくれます。事実、背中はものすごく”重く痛い”感じなのですが、お風呂に浸かって汗がで出すとスーッと楽になるようです。

糖尿病で免疫力が低下していること、退職し再就職が出来ていない状況でストレス疲労があることなどが、発病の引き金になったようです。調べてみるとこの「帯状疱疹」というのは、結構ポピュラーな病気のようです。

まだ10分間もパソコンを触るのは苦痛で、この投稿を書くのにも、5分書いて2時間休み、又5分書くような状況で書いてます。来週には多少治まっていることを期待しながら。

帯状疱疹詳細は以下のページがわかりやすいかも。
http://www.suita.saiseikai.or.jp/kakehashi/hifuka/no-1/houshin.htm
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by wata1150 | 2006-07-21 18:53 | 日本滞在記
帰国してから3週間が過ぎました。

昨日は猛暑、そして今日は涼しい東北の夏、おまけに一日中の雨、夕方雨上がりの瞬間に、久しぶりに庭に出てみました。

一時、ブログ仲間で話題になったアジサイ、当時は我が家のアジサイは咲いていませんでした。わずかにつぼみがやっと見える程度でした。ところが今日は、赤紫の小ぶりな花をつけ、新しいつぼみも見受けられました。
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玄関脇に群生しているすずらんはすでに花はなく、葉のみが広く分散して生えていました。良く見ると幾つかの葉の根元から茎が伸び、緑色の実をつけていました。
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たった3週間で、庭の花や、草も見事に様変わりしていました。庭の雑草は帰国後多少は抜いて綺麗にしたのですが、またまた、しぶとく新しい芽が伸びてきており、またむしってやらなければなりません。

庭の様相は、すっかり変わっているのに、私の生活環境はほとんど変わりません。朝からパソコンでメールチェックし、運転手をし、家政婦をし、TVをみて、本を読んで・・・。早く変わって欲しい物だと思いつつ、明日の朝食のメニューを考えています。
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by wata1150 | 2006-07-16 00:14 | 日本滞在記

ブログ開設一周年

私が”TADAの上海日記”というブログを開設したのは、昨年の7月14日でした。今日はまさに一周年記念日なのです。よく、一周年を迎えられたな!と実感として思います。残念ながら現在は失業中で”上海日記”ではなく”失業日記””日本滞在記”ですが。

私は、心情的には多少落ち込んでいる状況にあります。で、すっかり今日という日を忘れていたのです。が、つぼみさんに今日の記念日を教えていただきました。また、樋口さんに”折角日本にいるのだから「日本滞在記」書いてみない?”というヒントをいただき、現在”日本滞在記”を何回か書きました。まさしく、このブログは自分ひとりで続けてきたのではなく、ブログを読んでいただいている皆様の、声援、激励の賜物なのです。

私の好きな言葉に「継続は力なり」というのがあります。
こんなブログを書いていて何になるんだ?幾らの価値も無いだろう?そう言った批判も有るかもしれません。しかし私はこのブログを通して多くの友達を得ました。皆様に励まされて、時には励まして来ました。言ってみれば、まだそれほど大きくはありませんが、小さな”コミュニティ”になりつつあるのだろうと思います。お金で計ることのできない、非常に貴重なコミュニティです。これが最大の財産であり、これからの私を支える一つの大きな力になるであろうと信じます。

上海での一年間、仕事の上では、残念ながら大きな成果に結びつくまでには至りませんでした。私のやり方が悪かった点も多々有るでしょう。そして、時代の変化、環境の変化もあるでしょう。時間が短すぎたということもあるでしょう。樋口さんのブログの中に「対価の法則」というのが有ります。これを当てはめれば、どう言い繕った所で、結果として、私の努力が足りなかったのだと思います。

私のブログを一から読み直してみると、そういった変化を断片的にでも感じることが出来ました。そして、私の人生の大きな一ページに相当する一年であったことを実感するのです。

私は、このブログを「もこ」さんという、ネットフレンドとでも言うべきひとに勧められ、始めました。もこさんにも感謝と共に「一年間頑張ったよ」と報告したいと思います。そして、何があっても、パソコンがある限り、たとえ生活環境がかわり、別のタイトルに変えざるを得なくなっても、続けて行きたいと思います。

来年の7月14日はどのようなことを書いているのやら、とても楽しみです。

私のブログを読んでくださっている皆さん、本当にありがとうございます。そして、今後とも宜しくお願い致します。
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by wata1150 | 2006-07-14 14:42 | 挨拶
現在行っている就職活動を少し述べてみたい。
私の気持ち、意思の整理でもある。

失業中の現在、生活リズムは完全に妻の生活リズムに合わせられている。これは仕方が無い。なんと言っても食べさせてもらっている状況なのであるから。したがって、何とか早期に就職し、家にお金を送ることが出来る状態に戻さなければならないという切実な願いがある。

昨年の2月、それまで30数年勤務した会社を辞めた。このときは退職金がたんまりあったから、さほど切実感は無かった。そのうちどこかに就職できるであろう、くらいに安易に考えていた。毎日横浜のワンルームマンションの一室で、E-Mailをチェックし、ハローワークに出向き、人材紹介会社に相談に行き、数社の人材紹介会社に登録し、毎日各社を回ってお願いし、求人情報を待っていた。

3ヶ月をブラブラ過ごし、5月に就職が内定した。勤務は7月1日からということで、6月には妻と新婚旅行以来の、二人だけでの海外旅行にも出かけた。そして、7月から新しい勤務先に出勤した。この4ヶ月は私にとっては、命の洗濯といえる時期だったかもしれない。

今回は6月末で退職した。が、退職金もないし、給料も高いわけではなかったから、生活にも余裕もなかった。したがって、一年前とは全く違った心理状況、生活環境で過ごさなければならない。前の会社の退職金は年金に回したので、すぐに使えるお金としては存在しない。いきおい、妻のささやかな収入に頼らざるを得ない状況である。

退職後、日本に帰り、上海に居たときに面接を予約したある会社の面接を行った。先日「今回のことは縁が無かったということで・・・」という電話の一言で、駄目になった。

同じく上海で登録した上海の日系の人材紹介会社が3社ある。A社、B社、C社としよう。A社は現在具体的な求人情報をもたらしていない。その代わり、「我社だけでは心配なので・・・」とC社を紹介され、登録したのである。A社は私の知人がやっている会社なので、気持ちの上ではA社でまとめて欲しかったが、仕方が無い。

B社は私が上海の会社に就職したときにお世話になった会社で、日本でも比較的大手である。
2件ほど紹介を受け、そのうち1社は年齢的な問題がネックになって、書類審査で駄目になった。もう一件は、現在B社の副総経理が追いかけてくれている。この副総経理はまだ30歳代の独身女性で、上海の語学留学を終えた頃にB社の幹部と偶然出会い、入社した経歴を持つ。
中国語はかなり達者にこなす、いわばキャリアウーマンである。B社幹部に見込まれただけになかなか迫力があり、並み居る男性に勝るとも劣らない仕事振りで、女性にしてはしっかりした人である。

C社はA社の社長から紹介された、上海の日系人材紹介会社では大手である。上海には約200社くらいの日系人材紹介会社があるそうで、それだけ日本人の需要や、求職者が多いということなのであろう。C社の蘇州事務所から2件の紹介があった。1社は職種のミスマッチの感じがあって、私がお断りをした。現在、もう一件の案件を追いかけてもらっている。蘇州の担当者も女性で、直接お会いしたことは無いが、なかなかのしっかりものの感じである。

一方、日本に帰国後、6社ほどの人材紹介会社に登録した。一社は昨年私がお世話になったD社である。担当してくれたN氏に電話し、適当な会社を探してくれることになった。

また、WEB-SITEに人材紹介を扱う”EN"というサイトがある。ここでは直接求人情報を取り扱うほか、高齢者対応、ハイクラス求人などとあわせて、人材紹介会社を紹介するサイトもある。
ここで、リストや各社の内容を見て、登録できるようになっている。私は、この中から5社を選び登録した。うち2社は、現在は適当な仕事が無い旨を伝えてきたが、1社は私の履歴書や職歴書を要求し、最近それらを提出した。他の2社は現在、音なしである。

さらに、私が上海に居たときにお世話になったG社のM総経理にメールし、適当な会社を紹介してくれるよう依頼した。彼は上海歴14年のベテランで、かなりの情報通である。彼は早速数社の知己の会社に当たり、そのうちの一社を紹介してくれた。今週末にも面接までこぎつけるかもしれない。

こうしてみると、結構いろいろな方向で求職情報を探し、申し込んでいる。が、なかなか就職には結びつきにくい。原因はいろいろあろうが、整理してみると、(1)職種のミスマッチ、(2)給料レベルの差、(3)年齢的なミスマッチなどが主である。

求人側でも、人材は必要、だが、人材に何を求めるのかを十分に検討しないままに、求人票を人材会社に提出する事例もあった。仕事の内容を採用する人材のアイデアに期待するというパターンである。無論、詳細については採用された人材が経験や、仕事の目的により自分のアイデアを加えて行うことは当たり前であるが、全体の方向まで期待してしまうケースもあった。求人、求職とは結構難しい作業を伴なうことを知った。

自分が、何が出来て、何が出来ないのか、どのような仕事には向いていて、どのような仕事には不向きなのか、そしてそのような仕事に対する報酬はどの程度が適当なのか、採用する側も、される側もある程度は事前に知っておくことが必要であると思った。
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by wata1150 | 2006-07-11 22:44 | 日本滞在記
我が家の子供たちは、皆勉強が大好きなようです。なかなか学校を卒業しようとしません。

長男は、病気の為、まだ卒業できず、以前に書いたように病気と闘いながら学業を続けています。現在は医学部の5年生、来年は6年生で国家試験を受ける予定です。国家試験の後、研修医として2年間研修を積まなければ一人前の医者にはなれません。あと、少なくとも3年半は私の脛をかじるつもりのようです。浪人も無く、留年も無ければ、既に卒業し、就職しているはずの年齢ですから。長い間、病院と縁の切れない生活を送ってきましたので、体力は無いし、社会にでて就職するには、自信が無い様子で、本人は出来れば大学に残り、臨床よりは研究分野で仕事をしたい様子です。口に出しては言いませんが、アメリカに留学し、そのまま残りたい気持ちもある様子です。

次男は、高校のときに漫画アニメを楽しむサークルを主宰し、授業時間はほとんど睡眠時間だったそうです。ただ、同級生達と話をするのと同じように先生達と話をし、交流していた為か、成績は思ったより悪くならずに卒業したようです。但し、大学受験はアニと同じく医学部を受験して2度敗れ、3年目にあきらめて薬学部に入学、今は留年もせずに来た為、4年生です。兄より一年早く卒業を迎えそうです。と思ったら、大学の先生達に勧められ、大学院に進むつもりになり、推薦を受けて、入試を受けてきました。薬学部は来年から6年になる為、今4年で卒業し、国家試験を受けて薬剤師の資格をとっても、やがては6年制を卒業した薬剤師に比べて下になる可能性があるとの事です。それならばと、大学院に行って先を見越したレベルに達してから卒業を、と本人は思ったそうです。ただ、高校のときはほとんど勉強はしなかったのに、大学の勉強は気に入ったのか、楽しんで勉強をしている様子です。自分のやりたい道を見つけつつあるのかもしれません。

末の娘は、先日やっと高校を卒業しました。私立の受験校だった為、成績はそれ程悪くは無かったのですが、歯学部を受験し、見事に落ちて現在は天下御免の浪人生です。来年は歯学部に届く成績ならば歯学部、出来なければ薬学部を考えているようです。私の顔を見ると、”パパ、後何年か、私が大学卒業するまで、頑張ってね!”だって。クソー。俺は娘のスポンサーかよ!うん、そうだよね。娘なんだから。まあ、仕方が無いか。

ということで、我が家の子供達は、まだ当面社会に出る予定を持っていない状況で、少なくともあと6年以上は親のすねかじりが続きそうです。

妻と話し合いました。私の仕事が不安定で、しかも住宅ローンを抱え、経済的にもアップアップな状況下、収入を安定化するためにも、とりあえず妻の塾の仕事を拡大する方向にしました。チラシを撒き、生徒を集め、できれば第二教室を開き私の収入は臨時収入程度に考えることが出来るようになるまで拡大しようということです。幸い子供達も手のかかる時期は既に過ぎてますので、妻は仕事に全力投球できます。

私の弟や妹に言わせると、其処まで苦しみながら何で子供を学校に行かせるのか、学校を辞めて就職し、家計を助けさせてはどうかというようなことを言います。その考えを否定は出来ません。多分当たり前の考え方だと思います。事実多くの子供達が勉強したくとも経済的な理由から進学せず就職しています。しかし、私と妻は十数年まえ、同じことを考え、そして命がけで最大限の勉強をさせてやろうと決意しました。ですから、苦労は覚悟の上ではあったのですが。

それにしても、早く卒業してくれないかな、就職してくれないかなという気持ちはとても強くなってきています。そんなときに子供達は無邪気に大学院だとか留学だとか、浪人だとか、全く”親の心、子知らず”ですよね。
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by wata1150 | 2006-07-06 01:28 | 日本滞在記
今回は、極めて個人的な内容なので、書く事に大分ためらいがあったが、思い切って書くことにした。

私が失業中であるため、妻の仕事は現在の我が家の唯一の収入源である。
従来私は、妻の仕事に口を挟んだことも無いし、職場に足を運ぶことも遠慮しがちであった。しかし、失業中であるがゆえに、有り余る時間を利用し、職場を覗いてみた。

思い起こしてみれば、妻はいろいろな仕事をして、家計を助けてきた。最初の仕事は、横浜に住んでいた頃にやっていた”チラシ配り”だったか。新聞に入っているようなチラシを一枚一枚ポストに投げ込む仕事だった。いつも、深夜になると数百枚程度のチラシをバックにいれ、マンション街へと飛び出していった。慣れてくると、一度に数千枚を扱えるようになっていた。深夜だけでは間に合わないようになると週末に車に千枚程度のチラシを乗せ、マンション街を配り歩いた。報酬がどの程度であったかは覚えていないが月数万円程度にはなっていたのではないかと思う。それらのお金は、子供達の塾の費用や、長男が病弱だった為頻繁に掛かっていた医院の費用、不足気味だった家計の足しに大いになった筈である。

長男の喘息がひどくなり、我が家は仙台に越してきた。越してきた当時は妻は仕事どころではなく、長男の喘息の対応で息つく閑も無かった。が、私が横浜で単身赴任となった為、家が落ち着くと早速仕事を始めた。二重所帯となったのであるから、家計は横浜にいたときよりも大幅に増えてしまっていた。それを補う為に始めたのである。学研の児童図書の取次ぎなどもやった。ほとんど自分の為には使わず、子供達や家族のために使っていた。

やがて、仙台の我が家の10畳の和室にテーブルを並べて、熟の真似事をやりだした。元々、子供の教育には熱心な性質だった。自分が、子供のときに経済的な問題から、近所のほとんどの子供が通っていた塾には行けず、悲しい思い出があったらしく、塾の費用は利益がわずかにある程度の安い費用で、近所に住む子供を数人集め、我が家の子供達に勉強させながら、同時に教えていた。

最初は生徒は一人だけだったと思うが、やがて二人、三人と少しずつ増えてきた。生徒が増え、10数人になると、我が家の10畳の和室では収容しきれなくなった。そこで北仙台のビルの一室を借りて、第二教室とした。コピー機や、白板などを買い、設備を向上させていった。仙台で、東京や横浜の学習塾に参考書などを供給している出版者を見つけ出し、その参考書をメインに使用し、”東京や横浜の熟と同じ内容”を売り物にした。東北大の学生を講師のアルバイトとして雇いだした。生徒も30人か40人くらいになり、北仙台教室は間仕切りをして教室を分割し、生徒の収容力を上げた。それだけ生徒が集まるようになると、彼女の利益もそれなりに増え、家計も一時は多少潤ってきた。

しかし、熟に追われて肝心の我が家の子供達への世話が手薄になり、何時しか、北仙台を閉じる検討を始めた。本来、我が家の子供達への教育が目的で、そのためのお金を得ることが目的であったから、それは至極当然と言えた。しかし、教室に通ってくる生徒は、彼女を当てにし、熟を閉じることに大反対であった。その頃、仙山線陸前落合駅の前に、プレハブの2階建てを建てて、塾を招致している方があった。彼女はそれに目をつけ、其処を借り、塾を北仙台から陸前落合に移動することで生徒たちの納得を得た。教室の面積もほぼ2倍に増えたので、アルバイトの学生を増やし、損は出さないようにしながら、生徒数を伸ばしていった。また、陸前落合の教室は我が家から車で10分と至近距離になって、彼女の家事の時間も若干増えた。更にチラシを作って生徒を集めることも積極的に行っていたようである。一時は、生徒数は70人くらいにまでなっていた。

しかし、彼女も悩みを抱えていた。彼女にはリウマチの持病があった。横浜に住んでいた頃に発病し、しばらくは放置していた為、左腕の関節が腫れてしまい、腕がまっすぐに伸びない。しかも気候や気温、湿度の変化が有ると、痛みを覚える。忙しさにかまけて一時は通っていた整形外科にも通えなくなっていた。そのため症状は更に悪化し、ひどいときには車の運転が出来なくなるほどであった。教科書や参考書の入った鞄も持てない。そんな苦しさにも耐え、とりあえず塾の経営は何とか続いていた。

少子化の影響、デフレによる景気の後退などで、生徒の数が激減したりで、今は生徒数が一時の半分強位まで落ち込んでいるが、アルバイトの人数を減らしたり、教室のスペースを減らして、家賃を低減したりと工夫をしながら、何とか今日まで持ちこたえてきた。そして、上の息子は、喘息を抱えながらも、青森県弘前市の大学に入り、仙台を離れたが、次男は大学も仙台で、妻の仕事をよく手伝い、また家事をも手伝って、助けてくれている。

一般的には、最近では結婚して女性は専業主婦、ということも少なくなり、女性も外に出て仕事をすることは珍しいことではなくなってきている。しかし、私や妻の世代ではやはり女性はやはり専業主婦、という感覚が根強い。したがって妻が結婚後、仕事をし、収入を得だすと、家庭内における権力バランス(このような言い方は変だと思うが)が変わってくるのは仕方が無いのかもしれない。実際、妻の母親などは、女性が仕事をすると、亭主に対しての謙虚さが無くなり、また感謝の気持ちが希薄になりやすいので、女性は結婚したら仕事をすべきではない、などと今でも言っている。事実、私が家にいると、そういった状況はよく見受けられる。が、私も無収入である現状では何も言えない。私は、今は、台所仕事でも、彼女の運転手兼雑用係も黙って行わなければならない。

私が、今回失業したことで、家計はまたまた大ピンチになった。が、彼女はチラシを打ち、生徒数を増やすことで、少しでも収入減をカバーしようとしている。私としては感謝に耐えない。そして、何とか早く新しい仕事が見つかれば、と人材会社に連絡を取ったり求人誌をみて、何か良い仕事は無いかと探したりしている。

彼女は、私が思うに、愛情こまやかな、世に言う良妻というタイプではなく、むしろ男性的な性格をも持っているタイプの女性である。が、本質的には、自分のことより、子供達や家族を大切にし、一生懸命生きるタイプで、私にとってはかけがえの無い人だとおもう。そして、何とか早く仕事を見つけ、彼女を楽にしてやろうと思わずには居られないのである。
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by wata1150 | 2006-07-05 02:54 | 日本滞在記
千葉から、仙台まで帰る途中、私が横浜に持っているワンルームマンションの賃貸の件と、糖尿病の主治医に会うため、横浜に寄りました。朝、前日宿泊した津田沼のビジネスホテルから東急東横線日吉に向かいました。日吉でドクターの診察を受け、不動産屋さんと話をし、昼食を摂り、綱島の駅前の喫茶店でコーヒーを飲んでいたとき、その電話はなりました。

電話は妻からでした。長男が入院したと言うのです。「再発したのか?」と私。「そうらしい」と妻。「わかった。明日の朝、弘前に行く」

私の長男は、昭和53年の生まれです。現在は27歳、今度の誕生日が来ると28歳になります。彼は小さい頃から病気がちでした。小さい頃は喘息で苦しみ、小学校に入る前までは、夜眠ると咳で起き、眠れない為、私はよく彼を膝に抱き、彼は私を背もたれにして、眠りました。小学校に入っても症状はよくならず、頻繁に喘息を起こし、チアノーゼを起こした彼を、深夜に救急病院に連れて行きました。小学校の6年生の時には、私の実家のある宮城県の国立病院の喘息児病棟に一年間入院しました。学校を併設した専門病棟です。当時私たち家族は川崎市に住んでいましたが、川崎では喘息は悪くなっても良くはならないから、空気の良いところに引越しをした方が良いのでは、とのドクターの勧めで、宮城県の西部にある、現在の家を購入し、引越しました。私は仕事は横浜でしたから、私が単身赴任で横浜で生活することにしたのです。中学に進んだ彼は、喘息が全く無くなったわけでは有りませんでしたが、それでも大分頻度が少くなり、体力もついてきて、落ち着いた生活が出来るようになりました。

彼は、自分が病気がちであったことで、いつか医者になる夢を持ち、それなりに勉強するようになりました。が、大学受験で最初の年は学力不足で、いわゆる浪人生活を余儀なくされました。2年目に弘前大学の医学部を受験し、運良く合格し弘前にて単身学生生活を送るようになりました。大学一年の夏、彼は体調不良を訴え、事実体重も十数キロも減少し、仙台の家に夏休みを利用して帰ってきました。大学に入ったことによる、安心感や、単身生活を送る不安感、不規則な生活を送っていることなどによる体調不良と軽く考えていました。近所の病院に行き、いろいろな検査をしましたが、特に異常は発見できませんでした。

しかし、不安があったため、近所の病院から紹介を受け、仙台では紹介患者や、病名が特定できない困難な病気などを専門にしている、ある大病院に入院したのです。そして、内視鏡検査など様々な検査を受け、告げられた病名は”クローン病”。大腸に潰瘍ができているとのことでした。私はこの病気を知りませんでした。ドクターに教えてもらったことは、”特定難治病”として指定されており、治療費は国庫負担であること、現在治療法が発見されておらず、完治は不可能であること、一旦症状が治まっても再発すること、症状を緩和させるには水を含み完全絶食しかないこと、症状が治まっても、食事制限は継続されなければならず、ほとんどの食べ物は食べてはいけないこと、などを聞かされました。また、発病者は10万人に1人くらいの確率であること、20歳から30歳くらいの若い人にのみ発病し、高齢になると、ある程度収まってしまうことなどを知りました。

幸いにも、彼が在学する弘前大学はクローン病の治療や研究で日本国内では比較的進んでいる大学との事。早速、弘前に戻り、仙台の病院の紹介状を持って入院しました。胸に穴を開け、肺静脈に直接栄養材を流し込み、口からは水を含む一切の摂取をやめ、症状の緩和を待ちました。その年は、どうにか持ちこたえましたが、翌年、再度発症し、留年を余儀なくされました。そして翌年にはついに手術をし、大腸の患部を15cmほど切除しました。しかし、大学の単位は取得できず、2回目の留年、翌年も前年の影響から、勉強が間に合わず3回目の留年をしました。しかし、その後何とか勉強も追いつき、現在は5年生で、実習を中心に頑張ってきました。

そんな最中の再度の発病、再入院でした。私と妻は車で仙台から弘前に行き、本人の顔色を見、ドクターの話や、治療方針、治療方法についての話を聞きました。今は、症状はそれほどひどい状況ではないこと、ただし、放置すれば再度手術をするようになること、来年に医師の国家試験を控えていることから、何とか今のうちに抑えておき、来年に再発症をしないようにしたいこと、などの状況から、数年前から世界各地で使われるようになってきていた新薬”レミケード”という免疫抑制剤を使うことを提案されました。国内でも最近はよく使われるようになっているようですが、まだまだ実績は少なく、弘前大学でも80数人の患者の中で使用しているのは13人に過ぎないとのことでした。また、多くの副作用が想定されている為、かなり十分に管理されている状況でなければ使えないことなどを説明されました。私個人は使うべきと思いましたが、息子にその選択は任せるべきと思いました。同じ医学の世界に身を置こうとしている事、27歳と言う、十分に自分で決断できる年齢に達していることなどが、その理由ですが、妻は万が一の不安を打ち消せず、非常にナーバスになっているようです。弘前に一泊し、息子の顔をみて、仙台に戻ってきました。近日中に息子は自分なりの結論を出すでしょう。

現在、私の家族は、様々な病気を抱えています。私は糖尿病で7~8年薬を飲み続けていますし、妻はリウマチです。大学4年の次男は先日病気ではないものの”脂肪肝”を指摘されました。こんな中でも、何とか仕事をし、学業に励み、日々の生活を送っているのです。最近では早く子供たちが卒業し、社会人になって自立し、私の経済的負担、病気などの心理的負担が軽くなる日を夢想することが時々あります。

そんな中での就職活動が続きます。
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by wata1150 | 2006-07-02 23:28 | 日本滞在記
上海日記が途切れそうなので、当面日本での出来事を紹介しながらブログを続けようかと思います。はやく上海日記が再開できればと思いながら。

今回は、帰国後すぐに会った、採用面接についてです。相手がある事なので批判や非難めいたことは書きにくいので、薄っぺらになるかもしれませんが、あしからず。

上海で、私の部屋の世話をしてくれたある不動産会社は、人材紹介をする部門を持っていました。上海のマンションを返却する為、連絡したところ、「仕事を探してますか?」との話があり、詳細を聞き、登録することにしました。情報を記入する用紙を待っている内に携帯に電話が。女性の声で「Sさんから聞いたのですが、お仕事を探していますか?」とのこと。どうも、中国人らしい感じの女性。少し気をつけながら詳細を聞いて見ると、日本の、とある病院を中心とした企業グループで、上海に駐在する人材を募集しているらしいのです。法人登録は中国ではまだ行っていないが、事務所を開設して、いまから仕事をしてゆくということでした。

翌日、開設されていた事務所に行って見ました。どんな会社なのか知りたかったからです。仕事の内容も電話では良くわからなかったので詳細を聞いてみることにしました。場所は人民広場から歩いて10分程度、北京西路に面した2棟建ての、高級マンションでした。

担当者は呉さんという40までにはなっていないと思われる女性で、京都大学に留学し、帰国後結婚して上海に生活していると言う方でした。オフィスは22階にありました。ヨーロッパ調の豪勢な内装と家具で、オフィスと言うよりはホテルのVIPルームと言う感じの趣でした。オーナーは病院の専務理事で、企業グループの代表でもありました。が、実際は病院の理事長夫人で、院長の母親と言う方でした。昭和37年に一介の町の医院として開設したのが始まりとの事。この奥さん、いや専務理事、だんなをけしかけ、病院を発展させ、金儲けにまい進してきたのだな、と思ってしまいました。

一年前にこのマンション一室220㎡の部屋を2部屋、総額800万元で即金で購入したとの事。お金があるところにはあるものなのですね。その利用方法について、いろいろ検討し、今後実施してゆくとの事。そして、人材採用の目的は、専務理事が高齢な為、また非常に多忙なため、上海における新規事業を代行するということでした。 普通は、事業計画があり、その計画に基づいた資本計画が先にあって、投資を行うのでしょうが今回は、先にマンションを購入してしまい、どう活用するのかは後回しになっている感じです。会社にお金があるから、できるのでしょうが、事業としては相当に甘いのではないかと思いましたし、私が仕事をする環境としては、何か違和感が有ったことは事実です。

25日に帰国する予定だった為、27日の午後2時に本社で面談をする約束をしました。27日、私は1時45分頃に千葉県にある先方の指定場所に着き、秘書の方に連絡しました。まもなく秘書の方が現れ、専務理事の帰りが1時間遅れるので、その前に会社概要を説明していただけるとのこと、その話を伺いました。電話が何回か掛かり、秘書の方は再三に渡って席を外されました。まもなく3時になろうとする頃、やっと専務理事が現れ、何を言うでもなく秘書の方と二言三言話し、その後外からの電話やら、なにやらで、席を外されてしまいました。また、秘書の方から、専務理事に対し、再三に渡って、次の会議があるとか、面会者が来ているとか、再三伝えられ、この会社は本気で人材を採用する気が有るのだろうか?と思えるほどでした。

結局ほとんど何の会話もしないまま、30分を費やし、秘書の方から、結果は別途連絡しますから、との事で、追い出されてしまった感じでした。唯一、専務理事と話した会話は、「あのマンションをどう使いますか?」「上海地区に生活する5万人から10万人に対して、日本の医療情報の発信基地としてはどうか」「どのくらいの時間が掛かりますか」「1年では多少難しいかも」「私だったら半年でやります」と言うようなやり取りがありました。もう少し、詳細なプランも考えてはいたので、面談の話の進み方によっては、話してみるつもりだったのですがすが、多少腹が立ったこともあり、詳細は話をせず、また、ここは私が仕事をするところではないという感触もあって、早々に退散してしまいました。最後に専務理事から、私の略歴と専務理事の仕事の中で、接点がなさ過ぎるというコメントがありました。ま、私も同様な感触でしたから、否定も肯定もしませんでしたが。

感触として、事業感、仕事の進め方、人材に対する考え方など、あまりにも違和感が多すぎ、多分採用になることは無いだろうと思いながら帰路に着きました。その後、メビウスインターナショナルの樋口総裁と会い、近所のファミレスでコーヒーを飲んで、私のぼやきを聞いてもらいながら、結局夜11時頃まで、慰められたり、先方の意思を分析したりして、過ごしました。私の欠点もストレートに指摘していただきました。私の性格は結構自由奔放で、束縛されるのを良しとしないのに、長年の会社生活のために、大企業的な仕事の進め方を発想してしまう。また、自分を売り込む方法が下手、と言うようなことでした。私も、そんなことは多分に意識していましたから、ショックはありませんでしたが、改めてそういわれると、会話の端々にそう思われる表現があったな、と改めて思いました。
( 樋口さん、貴重な時間と助言をありがとうございました。)
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by wata1150 | 2006-07-01 22:00 | 日本滞在記